滑った感じ
八男(はちおとこ)



 「いやんばかん木久蔵です」は、オシャレにキマってはいけない。空振りがいいと思う。 

 心の中に本当のものを求めていて、最近は、本にそれを押し付けている。書店で見つけたそれらしき本を買い、胸に支えるような感じで、消化不良のまま読み進む。加速に急ブレーキを含ませながら。
 それはただ、読むのが遅いということなのかもしれないが、気持ちの中に、固定されたものができるまで読んでみる。途中で「わかんねえよ、こんな感覚。依存できません。どうせ俺はひとりぼっちですよ」と、投げ出し、散歩でもしてしてしまえと思うことも度々だが、辛抱していると、確かな実感のようなものにもなる。それは息のふきこまれたものであり、なにやら握り飯のようでもある。そんな本を2、3冊カバンに入れて、安心したような気分になるのである。本当のものとは、体の中にあって、それは気とか息とか魂心とかいうもので、要するに、何かに思い入れて、それを持ち歩かないと安らがないのである。
 飲み屋で仲間と、本当のものという議題になったとき、いつもこの話をするのだが、わからんといって笑われる。笑われると嬉しい。
 
 桜満開の時なんかに、読破するには行き詰まった、入魂の文庫本を、お気に入りのちょっと黄ばんだ白いカバンに入れて、肩にかけて外出したりすると、華やかな光景のなかで、私の背中に、使い古しの革財布のような味が出ているような気がして、周囲の酒臭さや、怪しさが手伝って、うっとりした気分になる。  
 これで公衆便所で小便すると、めでたい感じが勢い突いて、三拍子(文庫本、カバン、小便)揃ったなんて、無理矢理縁起かついで、生きてる感じがしてきたなんて、調子に乗って、できれば小便している顔を鏡で見たいと思う。そして鏡の顔も生身の顔もうっすら微笑んでいて、微笑んだままそっと目を瞑る瞬間の、鏡の顔との別れ様がいいなんてまたうっとり。
 ここまでくると、自分にうっとりしすぎている馬鹿さ加減が高じて、吹き出してしまう。だけどこの感覚は、どこかで聞いたことのようにも思えてきて、泉鏡花じゃなかったかなあなんてドキドキしてしまう。万引きした気分になって、辺りをキョロキョロ見てしまう。ごめんとか思う。
 しかし小便の最中、花見は女子トイレが混んでいて、デート中の、オシャレなイケメンのニイチャンが、むちゃくちゃえげつない可愛らしいネエチャンを男子便所にエスコート。
 ニイチャンの「な、ここにしとき」
 ネエチャンが「なんだか恥ずかしいわ」
 と言い、大便のドアの戸と鍵が閉まる音がして、ショック。そこまで信用していないのか。まるで私が戸を閉めなければ覗くとでも思っているかのようだ。けしからぬ。仮に今ニイチャンが見張りをしていなくとも、覗き見もチラ見もするもんか。しかしネエチャン放尿の際、そんな自分を裏切るかのように、集中して聞き耳たてるのである。
 ニイチャンとネエチャンの世界と自分の執着に翻弄され、ぐらつきつつも、先程の感覚を取り戻そうと、心の中のネエチャンの放尿の残音を消去し、冷静に黄ばんだ白いカバンを凝視し、この黄ばみは決してネエチャンの尿の染みではないと言い聞かせ、うっとりを少しばかり回復させようとするのである。それはあたかも、酒池肉林と俳句が格闘しているようなものだ。
 うっとりが回復してくると、ごめんも回復してきて、やりきれない気持ちになった。 
 
 ちょっと黄ばんだ白いカバン。自分の所有物に愛着を持ち、常備するって、すごく健康的のように思う。それがちょっと黄ばんだ白いカバンだと余計に。生身じゃなくて生身。半生。やっと自身の生き方を見つけたようで、外出するとき、これがかかせない。もちろん、文庫本を入れて。文庫本もめくると、ぺらりと音がする。半生だ。


 朝遅く、車に乗って、そんなカバンを後部座席に置いてでかけた。昼まで一時間くらいある。天気は曇り空で、ぽつぽつと雨が降っている。車の窓には軽いじんましんのように水滴が現われては、間のあいたワイパーにかき消されて行く。
 おっさんから「ティピの中で火を炊くから遊びに来い」と言われたのだ。ティピとは、アメリカのインディアンの住んでいるテントで、白くて三角錐状の、縦穴式住居のような雰囲気のものだ。おっさんが昨年の夏に購入し、秋に自宅の稲刈りが終わったところに置いたという話は聞いていて、年が明けてこの日、久しぶりに再会することになった。
 
 おっさんとは、十年来の仲で、旅先で知り合った。中国で電車に乗っているとき、同じ車両にいたのだ。服装は釣りに行く格好のような感じで、ベストには幾つもポケットがついていて、便利そうだなと思った。ただ、髪形は弁髪で、漫画に出てくるラーメンマンのようだった。
 「あんた関西人か?」
 と尋ねてきたのも印象深い。普通は「日本人ですか?」だろう。おっさんは、私の身なりや雰囲気を見て、かなりの精度で日本人だと見定めたのだ。こう言うと、どこの出身か、あと一つのところまで絞り込める。
 自分は「ほぼ、関西です」と答えた。
 「どこや?」と言われ「滋賀です」と答えると、あのおっさんの笑顔は忘れられない。
 「そうか!わしも滋賀や!」
 滋賀で出会って、滋賀ですと言っても、この共感の大きさは無かっただろう。しかも私が「ほぼ、関西です」と言った、この「ほぼ」がことのほか嬉しかったらしい。この「ほぼ」は、滋賀県人の多くが持っているもので、中部とも北陸とも隣接していて、どこの地方だかはっきりしない。だから、ほぼ関西。
 近江商人だとか、そんな言葉があるけれど、そんなイメージがぴったりくる人なんて少数しかいなかったし、わりかし、中央が作ったモデルに乗っ取った非個性的な文化で、滋賀県人としては、アイデンティティをちょっと確立できかねない、微妙な県民性を持っている。むしろ、一番、今の日本人らしい人が多く住んでいるような気もする。
 と、感じるのは、地元のテレビ番組などを見ただけの、どっぷり漬かっていない人間が言うことで、十年多く生きているだけでも、こつこつおもしろい人に出会っていくので、そんなに捨てたもんじゃない思いも込み上げてくる。しかし、自分に捨てられた人とはどういう人だろう。「捨てたもん」の側の人。希望にならない人。おもしろくなかったら捨てられるのなら、無理にでもおもしろくしていくまでだ。つないでいく気構えさえあれば、希望は消えない。こんな考えが、長続きしないのはわかってる。
 
 そのとき私のカバンに入っていたのは、石川啄木の句集だった。かなりシュールな句が多く、爆笑しながら読んでいた。若いなりに、啄木をそうやって掴もうとしていたのだ。だから今、若いやつに誤解されたって構わない。そうやって掴もうとしているのだから。
 だから、老人が啄木のことを「あれは笑って読むもんや」言って、悟ったような顔をしていたら、気を付けよう。眉唾ものである。決して「さすが年の功、言う事が違う」と唸ってしまってはいけない。なあに、若いころに無理やりに掴んだ実感を、訂正もせずに引きずってきただけだから。

 やとばかり 桂首相に手とられし夢みて覚めぬ 秋の夜の二時   啄木
 
 おっさんとは意気が合って、その後、何日か一緒に行動を共にした。けれど雑技団を見に行った以外は、一緒にどこに行ったのか忘れた。飯を一緒に食っていたことくらいかな。
 だけどひとつだけ、いつの日にか食べた、おいしい中トロのように強烈な印象が残っている。
 おじさんが二人、豆腐屋と小鳥屋だったか、どちらも自転車に乗っていて、品物を積んでいた。一人は人民服を着ていたのを覚えている。両者が交差点のど真ん中で正面衝突。自転車は共に倒れて、道路には豆腐と小鳥が散乱。豆腐を小鳥たちが、遠慮もなしにつつき出した。そして二人のおじさんは交差点のど真ん中で口論を始めたものだから、車は大渋滞。おもしろいなと思った矢先、
 「まあまあまあまあ!」
  おっさんがつかつかと二人の間に入り、二人の中国語の口論に対し、
 「わかる。あんたの言うてることももっともです」
 なんてやっている。そして、二人とも中国語でおっさんに主張しているし、おっさんは関西弁で返すのだけど、このやりとりが、成立しているのだから不思議だ。
「どっちが、どうやってぶつかったの?」とおっさんが言うと、中国人二人がやんやと「こいつがこうなってああなって」と、おっさんに訴える。なんで日本人が弁髪やねんという違和感が、常に中国人二人の心に付きまとってはいたが、親身さと迫力だけで、会話ってできるんだなと思う出来事だった。あれ以来、野球中継を見ていて、監督が球審に講議するのを目にする度に、思い出しては笑ってしまう。
 
 旅の行先が違ったので、途中で別れたけど、住所は交換していたので、手紙や電話のやりとりはたまにしていたが、距離感を、どう掴んだらいいものか。
 あれからずいぶんと月日は流れているし、自分がおっさんにとって、どういう設定になっているのか、微妙なところだ。そのまま突撃したほうがいいのか、ずっと布陣したまま、固まっていたほうがいいのか。しかしやっと、号令がかかった。こんなことなら、もっとさっさと遊びに行っていればよかった。そしたら、おっさんの家が、昼寝をしたりできるアジトになっていたかもしれない。と、勝手な事を考えた。
 しかし、あの楽しい思い出が、おっさんと再会することで崩れてしまったらどうしようとも思っていた。あのときは二人とも開放的だった。非日常の中にいたからだ。今は日常だ。終始事情が付きまとう。内心を全面に曝け出すわけにもいかない。自分がおっさんに境界線を貼られる怖さよりも、おっさんに線を引いてしまっている自分が居そうで怖い。そうなれば距離に思い出が、つまらないものにされてしまう。まあ思い出なんてどうでもいいや。そんなに大事に抱えているものでもあるまい。そんなものに支えられようなんて、浅ましい。どうなっても引き受けてやろう。
 
 しかし、気になるのが、誘われた時の会話で、
 「ぜひ、行かさせてもらいます。」
 「ほ、ほんまに来るんやな、よ、よし。」
 少し訥弁が混じってしまって、おっさんは狼狽しているようだった。いよいよといった感じで、おっさんとの時間は、たかだか数日だったが、再会するとなると、それなりに覚悟がいるものである。それをおっさんに感じとれた。おっさんも、覚悟を決めた。なんの覚悟だろうか。私のために、なにか美味しい手料理をもてなそうと思ったがおっさん自身料理に自信はなく、出前でも取ろうという経済的な覚悟だろうか。なににせよ、今度の一日は、そこそこ集中してかかって来るぞ。私は内心の興奮を抑えられなかった。それで、当日まで、一人の時は、ときおり鏡を見ては、いい顔しているなと、うっとりした。
 
 琵琶湖湖岸の道路をひたすら走って、ラーメン屋の「わたなべ」を左折すると、辺りは田んぼばかりで、両岸に田んぼが並ぶ道路をひたすら走る。窓を開けると、冷気と馬糞の臭いが車の中に入ってきて、慌てて閉める。車内の暖房に、外から入ってきた冷気が暖められるまで、馬糞の臭いも残っていた。やがて、さっきまで遠くに見えた山と集落が近づいてきて、その集落に隣接する田んぼに、ティピらしき、白い三角錐が見えた。
 ほっとした。着いた。おっさんに場所を聞いたとき、「湖岸走って、わたなべを、左曲がってまっすぐ」としか聞いてなかったので、なんのわたなべなのか、わからなかった。私は家具屋だと思っていた。ラーメン屋のわたなべを曲がったとき、この先ティピがもし無かったとしても後悔しないでおこう。そう思った。そのときはおっさんとはもう縁が無かったんだと諦めようと、自己中心的な決断をした。覚悟を決めたときはときは心が大きくなった気がしたけれど、覚悟した直後にティピを見つけてしまったので、サザエさんのオチのときに感じる、主人公の気まずさのようなものが漂った。明滅する心の中の恥模様のほうが、外界に振りまく恥よりも恥ずかしかったりする。さっそく車のミラーで自分の顔をチェックすると、照れが顔の表面に泉のように沸き出ていて、可愛らしかった。ぱらぱらしていた雨も、もう止んでいた。
 
 携帯で電話すると、中にいるから入ってこいとおっさんが言った。田んぼの上にティピがある。それだけである。だからすごく落ち着いている。ティピが静寂をつくっている。ティピの屋根のような部分から、煙突が貫かれていて、もくもく煙が上がっていた。その光景は、実に生活感があって、生活感とはこうも静かなものなのかと実感させられる。ティピとは、「それだけ」だけの存在で、それでいて、完璧だ。
 
 おっさんに会う直前になって、ティピを目の前にして、久しぶりに会うのがとても嬉しくって、でもなんだかまだ会うのが怖くなってきて、そわそわうきうきしてきたので私は走り出した。ティピの田んぼに隣接する村を一周してみた。ハァハァと白い息を吐いては冷気を吸い、冷気が肺に直で入ってくるので、まるで肺の全面にメンソレータムでも塗っているかのようにひんやりした。嬉しくって嬉しくって、ただ走った。何か私一人だけとてつもない幸福を抱えているかのような、特別な存在のように思った。歩いている村びととすれ違ったとき、私はその村びとに対して、エリート意識のような空気をぶつけた。私はおっさんに会いに行く階級だと思った。しかし、ただ走っているだけで、すれ違う村びとたちを、土門拳の写真の中の人のように、こっちに引っぱり出してくるのは不可能のように思えた。おそらく、私を見て、どの村びとも「エリートが走っている」とは思わなかっただろう。たぶん、「えらい嬉しそうに走っている人」と、そう感じただけだろう。だって、私は、にこにこしていたから。
 
 そろそろおっさんがしびれを切らしているんじゃないかと思っていた矢先、携帯に電話が入った。
「な、なにしとるんや!は、はよこい!」
訥弁と勢いが混じっていた。そのまま走り、息を切らせながら、ティピの中へ駆け込もうと思ったが、入り口が小さく、急に私の動きはスローになったので、過呼吸ぎみになった。
「頭の上、煙突あるで気をつけいよ!火傷するぞー。」

 全面、白いキャンバスが張り巡らされてあるティピの内部の中央には、ストーブがあって、そこから煙突が伸びて、ぐるぐるまわって、天井から突き抜けている。キャンバスから日光が漏れてきていて、昼間はランプが無くても明るい。地面にはフォークリフトで使うパレットが敷かれていて、その上に毛布が被われていて、腰掛けられるし、寝転びもできる。ティピ内では、上着を脱いでもあたたかい。五、六人は軽く入れそうだ。
 
 おっさんは、目の前に実体が来たことで、安心していた。私が素直な空気で面したので、余計に安心したようだ。私を確認して、すぐにストーブに焚き火を焼べるのに集中しだした。火のほのかな赤い明るさにおっさんの顔が照らされて、たくましく映った。ティピの中でこうして座って焚き火にあたっていると、無意識が刺激されて、原始的なあたたかさを思い出すようで、昔、自分は、インディオだったのではないかと思われるのだった。いつもの私だと、すぐに鏡が見たくなったりするほど、自分の顔や姿に執着しているが、焚き火の魅力によって、それが解放されているのがわかった。そしていつしか呼吸は落ち着いていた。
 おっさんの頭はあいかわらず弁髪だったが、前よりもちょっと短くなったかなという感じだった。あったかそうなベストを羽織っていた。そして、もともとおっさんだったので老けたとかそんな印象は感じない。

 おっさんは突如喋りだした。世界の貧困国の諸問題についてとか、日本を憂う話を、捲し立てて話すので、おっさんの話についていくのが精一杯だった。しかしその話に惹き付ける力があって、退屈しなかった。練習したんじゃないかというほど巧く、古典落語を聞いているような感覚だった。とくにおっさんの持論で、オレオレ詐欺は日本国民に警戒心を身につけるための、いいトレーニングになっているという発想は面白かった。ただ、おっさんが普段何をしているのか、仕事の事とか、そんな話に切り出そうとしても、そういう間がなかった。プロじゃないから入れなかった。私はおっさんの話を展開することはできても、転換させることはできなかった。しかしそれは十年前も同じ事で、もともと、おっさんとは、勢いそのもので、上がったテンションが着物を着ているといった感じだった。

 「さあてと、やきいも焼けたかなあ!」
 元気よくおっさんはストーブの焚き火の中から、やきいもを取り出した。あつあつのやきいもが出てきた。手の上に乗せると熱さで一度手放した。そのやきいもの跳ね具合は、イキのいい魚みたい。黒焦げの魚の分厚い皮を剥くと、中にはぷりぷりの黄色いお肉が!と、言いたいところだったが、やきいもと魚はいくら例えでも一緒になれないほど異なっていた。やきいもはやきいもでしかなかった。一口頬張ると、
 「う、うまい!」
 思わず、食いしん坊アニメみたいなリアクションをしてしまった。訂正して、本当はもっと違う、渋いリアクションをしたかったのだが、受け入れざるを得ないなと諦めた。
 「そ、そうかぁー!うまいかぁー!」
 めちゃくちゃ嬉しい顔になった。それは昭和なつかしの嬉しい顔だった。土門拳の写真のようだった。
 
 かなり体があたたまってきて、たまりきった熱気を放出したくなって、外に出てみた。一緒に出ましょうとは言わなかったけど、おっさんも出てきた。しばらくは冷えきらないほど、私の体はティピの中で、あたたまっていた。湯たんぽ人間二人、空を見上げた。雲がぽっかり。空は青かった。さっきまで上空を包んでいた曇りの大陸は、遠くの空へと移動していた。
 
 おっさんは私がどこかへ逃亡するとでも思ったのだろうか。なにか見張りでもしているかのように私についてきた。おっさんは第二弾の古典落語「デビューした頃のタモリ」を語り出した。この噺も飽きさせないもので、ハナモゲラ語なんてネタを実演して見せてくれて、こんなネタ、見たことなかった。
 
 たしかに、一緒に旅をしていた頃は意気が合っていた。それは、私もテンションが高かったからかもしれない。若さと旅の興奮に、おっさんのテンションが、私のテンションを触発させたのかもしれない。少なくとも、おっさんといた間は、それが持続していた。
 しかし、十年たった今、私もすっかり落ち着いてしまった。どう触発されようとも、上がらないテンションというものが備わってしまっているのだ。たとえ隣でロックコンサートを贔屓のグループが始めだしても、どうにも落ち着いてしまったのだからしょうがない。一緒になって飛んだり跳ねたりはできないのだ。静かな、一客として、勇姿を見守り、また、楽しむだけである。だからそんなおっさんを、静かに楽しんでいた。
 しかし、おっさんの心裏とはいうとそうではなく、私のテンションとのギャップに苦しんでいた。十年前なら共演でき、キャッチボールになって成立していた関係が、私が一客である以上、おっさんが芸人でなくては関係が持たない。少なくとも、おっさんは、そう思い込み、追い詰められていた。
 
 「一服させてもらうで」
 
 おっさんは、煙草を吸い出した。なんとかこの時間を凌ごうとしていた。何かあったとき、いつもおっさんは、きっとこの煙草を吸って、自分を取り戻すのだろう。きっと、おっさんの理想とする完全体にはほど遠いのだろう。おっさんは、本当は寡黙なだけで、ずっと貫き通してきたのかもしれない。十年前、思いきって変えたキャラクターが、たまたま私と意気投合し、そこに真の自己があるという幻想を抱き続け、職場では表現できない自己とは仮のもので、本当の姿は中国で、私と過ごした短い時間の自分なんだと、言い聞かせてきたのではなかろうか。そんな考えを支えにして、いままで生きてきたけど、あれは夢でしかなかったんだな。あのときの状況が、麻薬みたいに一時、自分を変えただけなんだ。もう、自然な形で、あのテンションは再起しないんだな。結局また、この煙草に帰り着くしかないのか。そんなおっさんの諦めというか、悟ったものが、この煙草を吸っている間、雲散していく煙と共に伝わってきた。
 
 おっさんの弁髪を見ると、なにか、物悲しい思いがしてきた。きっと、この弁髪も、明日、おっさんがどこかの職場に出勤するとき、剃り落とされるのだろう。今日この日のために、わざわざそうしたのかな思うと、涙が溢れてきた。

 ビギナーズラックの友人。おっさんにとっての私。おっさんが、私の手のひらの上でころころと転がっている。どうしてそんな、檻にかかった猿のように運命的なものが、このおっさんなのだろう。これが、めちゃくちゃえげつない可愛らしい女の子だったら、どんなに良かったろうと思うと、溢れた涙がこぼれてきた。すぐさま、おっさんに気づかれないように、手で拭った。

 「山羊んとこ行くかぁー」
 ティピから、徒歩数分の畑に柵があって、山羊が三匹、のそのそと動いていた。ビー玉のようなその瞳の奥には、哀しみのようなものが感じ取れなくもなかった。山羊というよりは、山岳の少数民族のようにも受け取れた。
 「ええもん見せたろか」
 おっさんはそう言って、左腕で山羊の前足ニ本、右腕で後ろ足ニ本を掴み、暴れる山羊を押さえ込み、乳にむしゃぶりついた。
 「ん、ん、ん、」
 乳飲み子のようで、追い剥ぎのようにむしゃぶりついていた。
 「ん、ん、ん、ぷはー!やっぱ最高や!」
  
 健在をアピールすることが芸人だとしたら、おっさんは立派な芸人だと思った。おっさんの舞台は、私と一緒にいるときだけ、光り輝く。
 おっさん、いいよ、そんな頑張らなくても。どんなおっさんでも、受け入れてあげるから。生涯の友達でいよう。今後、どんなおっさんでも引き受けてやろう。おっさんの死に目にも会いたい。そんな縁起でもないことを考えてしまった。

 すると、ワゴン車が畑の縁に止まって、若者が何人か降りてきた。
「おっさん、鍋の材料買って来たでー」
「おそいわー!よっしゃ、こいつはちょっと変わったやつやけどよろしく」
 おっさんに、ちょっと変わったやつと言われてしまった。と、共に、今までの私の思考は、勘違いも、果てしなく甚だしく、瓦解してしまった。
 
 ティピに戻って食べた鍋は旨かったが、私の勘違いの動揺は、自分の中で処理しきれず、戸惑いがティピの天井にたまって、また、滴り落ちてくるようだった。飛び交う会話の中から、おっさんは交友も広く、みんなに愛されている人物なんだということがわかった。
 若者の女が、おっさんが飲んでいる缶ジュースを、
 「一口もらうで」
 と、無理矢理取り上げ、ゴクゴク飲み出した。おっさんが、
 「こら、飲み過ぎや!」
 と言って、しばらく二人とも笑顔で缶ジュースの取り合いを始めた。挙句、おっさんは女にヘッドロックを決め込んで、みんな大爆笑。私はその時、世界一情けない羨望の眼差しを、おっさんに向けていた。

 それにしてもティピの中は熱かった。すると、おっさんが、
 「ちょっと、入り口開けよか」
 そう言うと、若者が、丸い入り口を蓋のように塞いでいた、木の四角い板を外した。すると、なんともゆるやかな涼しい風が入ってきて、熱気と混じって、いい按配になった。







































散文(批評随筆小説等) 滑った感じ Copyright 八男(はちおとこ) 2009-12-30 11:17:13
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