不知火の海
楽恵

新月の深い闇夜はいつも
晩夏の有明海を思い出す


まだ19歳のひとり旅だった

熊本長洲港から最終間際の有明フェリーに乗船し
対岸の長崎国見の多比良港に渡った

フェリーに親しげについてくる群れた白鴎のあいだに
遠く去っていく宇土の山々の稜線と
近づいてくる雲仙岳や島原半島を眺めた

西日に輝く有明海は
それまでに見たどんな海とも違って
不思議な豊饒さに満ちた海だった

山に囲まれた内湾のせいなのか
日本海や瀬戸内海よりも潮の香りが濃く密に籠っているような気がした

もう日がずいぶんと暮れ始めていて
海風は強く時化た波が船体を激しく打ち付け
海鳴りが怖いほど身体に近かった

私にはそれが
島原の乱で皆殺しにされた
切支丹農民たちの怒号のように思えた

夕刻迫る多比良の埠頭に降り立った頃から
風はさらに強く吹き、桟橋付近の波もさらに荒くなった

自らの命を懸けるほど
絶対的な信仰をもたない余所者が
この半島を踏むことを糾弾するかのようだった



港のすぐそばにあった漁師が営む民宿に泊った
タコツボ漁の真っ最中で
旧盆が近く
客は私一人だった

気立ての良いおかみさんが夕飯時に
盆の精霊流しでは藁と竹で作った船に切子灯篭を飾り付けて海に流すのだと教えてくれた
死んだ人の魂を海の向こうの西方浄土に送り出すのだと言う

その言葉が妙に胸に残った



夜も更け眠りについて
どれくらい時間が経っただろう

真夜中ふいに目が覚めた
窓の外の海鳴りが
いつのまにか止んでいた
ガラス越しに闇に沈む黒い海を見た

(凪だ)

海上の風がまったく止んでいた
波さえ漆黒の鏡のように静かだった


気がつくと私は
港の桟橋を夢遊病者のように歩いていた

新月の夜の海は
天空の星を全て吸い取ったかのように暗かった


遠い海面の波間にチラチラと微かな炎が見えた
初めは漁火だと思った

火はだんだんと増えていった
心奪われるように見つめているうちに
漁火にしてはあまりに怪しげだと気がついた

気がつくと
百近い火の玉が
海面よりずいぶん高い宙を揺らめいていた


(不知火だ)


不知火(しらぬひ)と呼ばれる怪火に違いない
ぼんやりとした意識のままそう思った

暗い海を浮遊する数百の火の玉は
儚く幽玄で美しく
この世のものとはとても思えなかった


(西方の海に向かう霊魂だろうか)


時が経つのも忘れて彼岸の幻影に魅入っていた


それからいつ宿に戻ったのか
記憶が定かではない


翌朝宿を出ると人出があり騒がしかった
近所で亡くなった人がいるということだった


島原半島にはあれ以来行っていない



今でも風のない新月の夜は
真夜中に目が覚める


そういう時はいつも
私の魂もまた
あの晩あの暗い凪の海に置き忘れてきてしまったような気がする



自由詩 不知火の海 Copyright 楽恵 2009-12-21 22:46:21
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