「名」馬列伝(14) メジロアルダン
角田寿星

リアルタイムで彼の走りを観てきた者にとっては、彼がこの列伝に登場するのは到底信じられない思いだろう。
だが彼も間違いなく、時代の影の中に消えた名馬であった。
G1の勲章を手にすることなく…

黒鹿毛の風格ある大柄な馬体。大器と噂された。
歴史的名牝、メジロラモーヌの弟という血統の魅力が、それに倍加された。
実は彼は、双子として生を授かった。が、片方の兄弟は死産。
似たような境遇の活躍馬にダービー馬のアドマイヤベガがいる。
一般に、双子の馬は走らないとされている。胎内での栄養が行き渡らないため、と言われている。
もし兄弟が死産でなかったなら、のちの彼の活躍は、夢まぼろしと消えていたであろう。
しかし、「生き残り」としての彼の競走馬生活は、常に脚元の不安との闘いだった。

デビューからわずか2カ月、4戦めにして臨んだ日本ダービー。
まずは大外から、スプリントさながらのダッシュでアドバンスモアが大逃げをうつ。
最終直線、2歳チャンピオンのサクラチヨノオーが先頭に立った。
彼が内から伸びて並びかける。しばらくの競り合い。一時は半馬身のリードを奪う。
が、ゴール間近で、チヨノオーがまさかの差し返し。小島太、気魄の好騎乗。
「根性なし」と揶揄されたチヨノオーの一世一代の差し返しだった。
その瞬間、ダービー馬の栄誉ある称号は、彼の元からすり抜けていった。
そしてレース後、骨折が判明。1年間の休養を余儀なくされる。

一瞬だが、直線で必ず切れ味の鋭い伸び脚を見せた。常に正攻法の走りをみせた。
なんというか、格調の高いレースをする馬だったと思う。
特に左回りコースでの良績が多かった。
毎日王冠、直線の勝負どころ。
鞍上の岡部は外からオグリキャップとイナリワンが襲いかかってくるのを待っていた。
並びかけられたところで始めてスパートをかける。
彼の脚を測るために、わざと追い出しのタイミングを遅らせたのだ。3着。
秋本番の天皇賞。内から早めに追い出した彼はスーパークリークに並びかける。
クリークの武豊は、追い出しのタイミングを遅らせ、並びかけたところでスパートをかける。
毎日王冠とは逆の立場だ。しばらくの競り合いも、最後の最後で力尽きる。3着。

屈腱炎で1年近くの休養後、彼は再び秋の楯を争う闘いに赴いていく。
内からするすると伸びてきたヤエノムテキが直線抜け出した。
セーフティーリードを保ったかに思えたが、そこで外から差してきたのが、彼だった。
一完歩ごとに差を詰めていくも、アタマ差だけ凌がれる。2着。

屈腱炎を再発してからは、往年の走りはもはや取り戻せなかった。
3歳春から6歳秋まで3年半の競走生活で、わずかに14戦。
2年半以上が故障による休養だった。

種牡馬入りしてからは、福島2000mのレコードホルダーだったメジロスティードや、3歳時ブラックホークに勝ってオープン入りしたトーアステルスなどを出したが、揃いも揃って彼と同じような首の低い走法だった。
後に中国に輸出され、種付け中に心臓麻痺で死亡。
海のむこうで、彼の名前はまだどこかに残っているのだろうか。


メジロアルダン   1985.3.28生  2002.6.18死亡
          14戦4勝
          高松宮杯(G2)
          東京優駿2着、天皇賞(秋)2着(いずれもG1)


散文(批評随筆小説等) 「名」馬列伝(14) メジロアルダン Copyright 角田寿星 2009-12-13 22:19:40
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