あの日
草野春心



  あの日
  僕は近所の土手に立って
  透きとおる川の流れを
  じっとながめていた
  あの日
  それは午後二時ぐらいだった
  昼過ぎの太陽の
  どうしようもない明るさを
  僕は覚えている
  見知らぬ少年が僕の
  背後を通り過ぎてゆき
  遠い物音が僕の
  体じゅうに穴をあけていった
  取り返しのつかないほど
  あの日
  世界は目覚めていて
  目一杯の希望と絶望を降らせていた
  あの日
  それはひそかに終わろうとしていて
  陽溜りのにおい
  雑草のにおい
  ガソリンのにおい
  水のにおい
  あの日
  僕にとって何もかもが
  かなしすぎて
  あの日
  死にたくない
  自分の声が
  どこかに響き続けていてほしい
  そう思い
  願い
  祈った
  ……
  ……「そうかい?」
  「本当にそうかい?」
  「つまりそれは借り物の感傷さ」
  背後で
  そんな声が聞えたのも
  あの日
  あの日だった
  「本当にそうかい?」
  「きみは本当にそれを感じているのかい?」
  ……
  ……あの日
  僕は僕でありしかし僕ではなくそして僕であった
  あの日
  家の中では飼い犬が眠っていて
  母親は誰かと長電話をしていて
  弟が部屋に篭ってテレビゲームをしていて
  父親はパチンコに出かけていて
  やがてポッキーを持って帰ってきた
  でも
  それは
  いつもどおりで
  あの日
  それは時点ではない
  でも僕はそれを
  あの日
  と
  呼ぶ
  つまりそれは記憶なのだと
  思う
  (本当のことだけが記憶をつくるのではない)
  そこでも
  取り返しがつかないほど
  時は流れていて
  その流れは
  僕を追い越したり
  飲み込んだりする
  僕がその流れを
  追い越したり
  飲み込んだりするように
  ひょっとしたら僕は
  一歩も動くことなく
  一生を終えてゆく
  一瞬を生きることなく
  一生を終えてゆく
  あの日
  風が吹いて
  水のうえに痕を残して
  無数の空白へと吸いこまれていった
  そしてあの日
  あの日僕は
  幸福だった





自由詩 あの日 Copyright 草野春心 2009-11-27 13:20:50
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