「あざらしの島」(4)
月乃助

 町の誰もがそれを知ったとき、多分、それは、男の女への未練だろうと噂した。
 女とその娘がどこに行ったのか、町の誰も知らず、男に聞かれても皆ただ首を振るだけだった。
 男は、女が灯台のある島の赤い屋根の家に住んでいたのを知ると、今では誰も借り手のないそこへ移り住み、島から町に仕事に出かけた。ベーカリーでパンやペーストリーを焼く仕事だった。毎日、陽も上がらぬうちに小さなモーター・ボートでヨット・ハーバーへやってきて、昼にはもう島に帰っていった。
 春、島は一面紫のコロンバインで埋まった。
 夏には海峡の蜃気楼を、女もあれを見たのだろうと、そう思いながら眺めた。
 リンゴの実がなる秋には、それを箱いっぱいに摘んだ。
 それを見ながら、男は、女がアップル・パイが好きでよく焼いてくれたのを思い出した。もし、女がこの島に戻ってきたら、おいしいパイを焼いてやれると、そう思った。そして、その時には、男の娘にも会うことができるだろう。
 男は女と別れると別な港町に移り、そこで暮らした。女が海の声を聞くように、自分もそれができるのか、一人で試してみたかった。それができた時には、本当に女のことが分かるような気がした。そして、今では、少し海の声が聞けるようになった。だから、男はこの町に戻ってきた。
 でも、ここにはもう女も、そして、町の者達が言う、男の娘もいなかった。
 男は、それでも女の住んでいたという灯台のある島の家を借り、そこで、暮らすことにした。海の声がそう教えてくれているようだった。
 昼に仕事を終えると、男は島に戻り、菜園の手入れをした。
 リンゴはパイにして、冷凍庫いっぱいに冷凍にしてある。
 時間があれば、波打ち際でアザラシの寝転ぶ姿を見、アザラシ達がする話に耳を傾けた。
 シャチに追われた話に一番苦労を感じ、獲物に食べたサーモンの大きさを競う話に一番退屈した。それでも、中には町で人と住んだというアザラシもいて、それは、他のアザラシ達は信じる事はなかったが、男はそんなこともあるのかとその愛嬌のある顔を見つめた。
 海の声を聞きながら、波の意思を知る。
 そして、波に、もし女がどこかで、海の声を聞いているのなら、男のことを教えるように頼んだ。海は波よりももっと大きな、人の意志など及ばぬような存在と思うのに、波の方は聞いてくれそうだった。
 話を聞いていた男が立ち上がると、アザラシ達はいつもほんの少しそちらを見つめ、また、午後のまどろみに戻っていく。
 男は紺碧の波の立つ海峡を眺めながら、女と娘の幸せを海に願い、赤い屋根の家に歩いた。女もまた、別な町で暮らしながらそこで、別な何かを得ているように思えた。そして、それが終われば、男同様この島に戻ってくる、とそんなことを思うのだった。<了>
 


散文(批評随筆小説等) 「あざらしの島」(4) Copyright 月乃助 2009-10-31 03:51:04
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