地面かみなり
オイタル

「にいちゃん、まって!」
 青い公園と名づけた近所の小さな公園から、兄が走り去る。
「おおい。」
「にいちゃん!」
呼ぶ声は聞こえているはずだが、兄は走る。腕を振ってどんどん走る。あっという間に小さくなる背中である。

 二つ違いの兄弟は、けんかが日課である。何が原因かなど覚えていられない。からかうことが兄の問いであり、なくことが弟の答えである。

 三人で青い公園にお散歩。
 背後を歩く弟は、大声で兄を呼ぶものの、自分が走るつもりはもうとうない。根元から折り取った細い雑草を振りながら、得体の知れぬ行進曲を口ずさむ。そうしながら兄を呼ぶ。兄を呼んではいるものの、追いつくつもりはない。

 イトウのおじさんのお葬式は一週間ほど前。妻の叔母の夫であったイトウのおじさん。知り合ってまもなくの、いささか突然のさよならではあった。
 暑い日で、風はそよともいわなかった。
 自宅のそばの小さな寺の、薄くらい本堂の一番奥で、おじさんの写真は静かに笑っていた。五十といくつで亡くなってしまったイトウのおじさん。写真の笑顔がウインクしていた。

 並んでゆっくり歩く。
 巨大な「夏」が、雲一つない青空と濃い緑の地上を覆っている。遠くのあぜ道を走る自転車の子供ら。袖のない白いシャツに、茶色の麦わら帽がゆれている。セミの声が耳鳴りのように、木陰や川の面に鳴り響く。
 兄を追いかけようと声をかけるつもりで振り向くと、弟のほうはアスファルトの農道にしゃがみこんでいる。近づくと、声をかけようとした鼻先に、顔を上げた。
「地面かみなり。」
尋常でない暑さのために、藍色のアスファルトには、ジグザグの亀裂が深く入っている。
「地面かみなり?」
「ん。」
「すごいね。」
「ん。」
 身を分けて、小さな風が吹きぬける。背の低い草が、気弱く手を振った。
「にいちゃんは?」
 見ると、兄はもう遠くの屋並の陰にその姿を隠すところだ。
「近道でにいちゃんを追っかけよう。」
 ところが、呼びかけても、雑草の根元で地面のかみなりをなぞっている弟は、しばらく返事をしない。それから不意と、わたしの顔を見上げると、立ちあがって歩き出した。
 追いかけたわたしは、右手で弟の左手を握り、そのまま、雑草が子供の膝まで届くあぜ道に踏み込む。
 低い草の背の間から、濃く立ちこめる草いきれ。その中を、二人で歩く。踏み分ける雑草の先々を、さわさわと、何やら小さいものの気配が動く。かえる、イナゴ、蛾、バッタ。蒸し暑い雑草の森の中で静かに息を潜めていたものたちが、巨大な四本の足の襲来に、慌てて道を譲る。
 広がる田園の中に、入道雲のように盛り上がる杉林。二ダースほどの杉たちはいかにも太く大きく、枝先は天を指す。茶色い幹に、蔓の植物が這い登り、緑のタオルを巻いたように、その面差しは優雅である。
 そんな杉たちの媚態には目もくれず、手に持った雑草で再びかの行進曲を歌い始めた弟。

 たくさんの人が汗を拭きながら読経を聞いていた。あちこちからすすり上げる声も聞こえた。黒々と並ぶ頭の列はたとえようもない。
 だれも何も言わない。陽の差し込まない暗い本堂で、祭壇の写真を見ながら、読経の声の向こうに聞こえたものは、ようやく稲穂を揺らした風の音。
 少年の頃のイトウさんにも、むしりとった雑草を捨てることを忘れて何かに見とれた、たくさんの夏があったに違いない。

 その時、
「おおい!」
 田んぼのかなたの木の下で、兄が弟を呼んだ。



散文(批評随筆小説等) 地面かみなり Copyright オイタル 2009-10-11 22:05:58
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