海の遺影
木屋 亞万

夜になったばかりの砂浜に
喪服で佇む一人の女
黒いドレスに黒いハイヒール
光沢があるのは纏められた黒髪のみで
女の黒い部分のほとんどは
艶もなく影と夜に吸収されている

波打ち際にしゃがみこんだまま
女は数珠を左手に握り締め
右手の親指、中指、人差し指で
足元の砂を摘み上げた
その手を目の高さまで持ち上げると
海へ帰っていく波の中にそっと落とした

海が私の名を呼ぶまでは誰も私のことを呼ぶことはできない
これから私に与えられるだろういかなる金品も海の底に沈められているも同じ
その誓いを乗せて波は水平線へと引き上げていく

女の細い三本の指が再び砂を摘み上げる
持ち上げられた砂粒たちは
彼女の目から流れ落ちる涙の筋を見たはずだ
鼻の脇を流れ上唇から滴り落ちた涙は
すぐさま砂粒の隙間に染み込んでいった

これから先どれほど海が荒れ狂おうとも私はそのことを受け入れるだろう
奪われて困るたった一つの命はすでに奪われた
誰かの帰りを待つこともない、今更なにが思い通りになろうとも、既に遅い

もう一度だけ砂の粒を摘み上げて
女は立ち上がった
夏の夜に彼女の頬を三度流れ落ちた涙は
既に乾きの気配を見せている
最後のひとつまみを風に乗せるように海に放つと
彼女は海に背を向けて歩き出した

もうこれで海辺を訪れることは二度とないだろう
暗闇に溶けた海から、白い泡沫が波と共に生まれては消えてゆく
朝が来たら海は美しく輝き、夜は跡形もなく失われてしまうだろう

海は女の中に消えない影と夜を遺した
朝も昼も夜も黒い海のままで
女の自画像も萎びた黒い衣装のまま

眩しい思い出はその輪郭を丸くしながら海の底へ沈んでいく
海に降り注ぐ雹のようにいくつもの過去が海へ溶けていくのだ
その一粒ひと粒がこれから訪れるであろうどの物事よりも愛おしい
影と夜に紛れていく記憶の結晶が女を何より苦しめるので
彼女は自分の身体以外すべてを海に葬ることにした


自由詩 海の遺影 Copyright 木屋 亞万 2009-08-12 12:39:00
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