身体の海【1/6】身体の海の中を漂って
A道化

 <ときにわたしはそんな身体の海の中を漂って、…>



 鷲田清一著『悲鳴をあげる身体』を、数週間前に読み終えた。その中の言葉に、引きつけられる。

 著者である鷲田先生の講義を受けたことがある。とぎれとぎれではあったが、まだ大学に比較的通っていたころのこと。もう何年も前の話だ。学科は違ったけれども、同じ文学部の教授だった先生の講義を、真ん中よりも後ろの席に座ってボンヤリと聞いていた。ノートも何も恐らく残っていない。角の無いお顔・表情・話し方、つるりと剥げた頭、そして丸縁の眼鏡。柔かなひとだった。何についての講義だったか忘れたが、<共感覚>、という言葉だけ覚えている。その言葉を聞いたとき、私は、講義室の左の窓硝子の向こうの緑の葉を見ていた、それは午後の日を受けてキラキラしていた、私の視覚は視界だけを感じていて、 香りも味も伴ってはいなかった、

 当時は哲学科の教授だったが現在は大学総長になられている先生が、10年以上前に身体について論じて記した『悲鳴をあげる身体』の中の言葉、<ときにわたしはそんな身体の海の中を漂って、…>
 私は思う、わたしが身体の海の中を漂う、という感覚を、私は、知ってるような気がする。

 もの思う私、と身体とがそれぞれが自由でありながらそれでいてケンカのない状態。矛盾のない状態。制限し合うことも、足を引っ張り合うことも、責め合うこともない状態。一言で言えば、自由、ということ。充実、ということ。幸福、ということ。



 その本を読み始めたのは、『蛇にピアス』だとか、先日鑑賞した展覧会<アヴァンギャルド・チャイナ>における自らの身体を痛めつけたり貶めたりするようなボディパフォーマンスだとか、私自身のタトゥー欲、9つ目のピアスホール(今は10個空いている)、切り落とした黒髪、そういう、身体というものを考えさせる出来事の中で、ふと、以前読みたいと思って得て本棚に横になっている、その本のことが浮かんだからだ。
 私とピアス、…というよりも、私、と、ピアッシング。その関係を解明し説明してくれる、少なくともヒントをくれる、というような気がして。


散文(批評随筆小説等) 身体の海【1/6】身体の海の中を漂って Copyright A道化 2009-08-07 01:28:46
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