接吻
殿岡秀秋

ひらがなを読みはじめたころだ
ぼくは母と一緒に千住の街を歩いていた
街角の壁に貼ってある
映画のポスターには男の人と
女の人の顔が描かれていた
そこに読めない漢字
「あのじはなんとよむの」
「セップン」
「せっぷんってなあに」
少し困った様子が
母のからだの緊張から
伝わってくる
母のからだの内側のうごきは
ぼくのからだにも
同じ緊張を生む

「男の人と女の人が好きになったときに
唇と唇を合わせることよ」
子どもには言いたくないことを
問われたから仕方なく
大人として説明しなくてはならない
という義務感で
舗装路を見ながら
西瓜の種を吐きだすように
母はつぶやいた
大人の秘密の世界が
その種に含まれているのを
ぼくは見ていた

早めに小学校が終った日
宿題も出なかったので
足取りが弾んで
薄い汗を掻きながら
家に着くと
勢いよく玄関をあけた
母は出かけていたが
叔父が留守番をしていた
ぼくは母との会話を思いだした
「せっぷんというのは
おとことおんなが
くちびるをあわせることをいうのだよ」
叔父はうなずいた
「やってみようか」
とぼくはいった
叔父と唇をあわせると
薄い汗をかいたまま
外に遊びに行った

数日すると
なんでせっぷんしたのか
と自分を責めはじめた
取り返しのつかないことをした
自分の唇を切り取ってしまおう
すぐにはできなくとも
大人になったら手術して
新鮮な唇と取り替えようと
ぼくは考えた
しかし取り替える唇はどこにあるのか
いくら考えても解決しない
そして叔父が大嫌いになった

大人になったぼくが
好きな女と接吻して
唇を吸っていると
胸を日影のようによぎる
幼い日の接吻の記憶
たちまち胸が暗くなり
からだが内側から冷えてくる

なおもぼくの舌を吸おうとする女の
唇から離れ

母の背におぶさったように
女に全身をあずける

にじみでる汗
アイスクリームのように
ぼくのからだが溶けて
女の中に滲みこんでいきたい

かすかに揺れる
西瓜の種の乳首に
遠い日の母がよみがえり
ぼくの胸から影をはがすと
ベッドの崖から落としてくれる



自由詩 接吻 Copyright 殿岡秀秋 2009-07-18 06:02:40
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