「名」馬列伝(1) ライバコウハク
角田寿星

天性のジリ脚だったのか、それとも他馬の先頭に立つのが嫌いな「お馬好し」だったのか。
2歳の札幌でデビューして以来、3歳の秋まで、平地ではついに勝つことはできなかった。
しかし掲示板を外したのも、わずかに2回。一生懸命走っては必ず入着圏内に入ってくる、おそらく真面目な馬だったのだろう。
平地15戦0勝、2着1回、3着3回、4着5回、5着4回。この成績が、彼の性格を物語っているように思える。

3歳の秋に入障。初戦こそ落馬競争中止だったが、3戦めの未勝利を大差で勝つと、明けて4歳、初戦の条件戦をレコード勝ち。晴れてオープン馬となる。
そしてこれからが(美浦から栗東への転厩を挟んで)、善戦マンたる彼の本領発揮だった。

4歳の春から6歳の春まで、9戦して2勝、2着は実に、5戦連続2着を含む7回。
展開のばらける障害戦では非常に珍しい、1馬身以内の負けというのが、実に4回もある。しかも滅多に見られないハナ差負けが2回。
先行したまま、勝つ時は大差。負ける時は競り合いで力及ばず、というのが彼のスタイル。
当時の障害戦は、オキノサキガケ、メジロアンタレス、オンワードボルガ、ハッピールイスといった強者たちが勝ったり負けたりの激闘を繰り広げていたが、そのすぐ後ろには、いつも彼がいた。
そういえば彼には、中山大障害2着4回、という珍記録もある。

7歳春の中山大障害。
彼は惜敗や、返り討ちを幾度も喰らいながら、京都大障害を2度勝ち、いつしか「西の大将」として成長した。
相手は「東の総大将」オンワードボルガ、菊花賞に出走もした「快速馬」カルストンイーデン。
彼は前2走の不振がきらわれたのか、4番人気だった。
レースは…有力馬カルストンイーデンのいきなりの落馬という展開のアヤはあったが、オンワードボルガに8馬身差の逃げきり勝ち。四回めの挑戦にして、初の栄冠を勝ち取った。騎手にとってもデビュー15年めにして初の、嬉しい重賞勝ちだった。

彼自身最後のレースとなった、翌8歳、暮の中山大障害。
1番人気は8戦7連対、春の大障害2着の「新鋭」トウショウドリーム、2番人気は8歳ながら近走好調のシノンシンボリ、3番人気は重賞未勝利も安定感のある地方上がりのミネノカガヤキ。
彼は近走の不調もあって、それに次ぐ4番人気。さらには人気薄ながら往年の名ジャンパー、メジロアンタレスにハッピールイスも参戦していた。好敵手だったオンワードボルガは、前年の大障害で落馬競争中止、既にこの世を去っていた。
レースがはじまった。メジロアンタレスと共に、彼は先行。大竹柵でややバランスを崩すも持ちこたえる。トウショウドリームはペースに付いていけず、少しずつ後退していく。
そして向う正面の、大土塁障害。
先頭に立とうとペースを上げながら障害を越えようとしたその瞬間、彼の後肢に鈍い音が走り、大きくバランスを崩す。骨折したことは誰の目にも明らかだった。
そしてなんと、三本脚のまま、大土塁障害を飛越。当然着地できる筈もなく、もんどりうって倒れる人馬。
その直後、彼は何をしたか。彼は骨折の激痛に耐えながら、前肢を突っ張るようにして、騎手と障害の間に立ちはだかった。そう、自らの躯を盾にして、後続の馬から騎手を守ろうとしたのである。
同じ障害で、1番人気のトウショウドリームもまた、後肢をひっかけ、転倒。粉砕骨折を発症する。この大惨事にもろに影響を受けたメジロアンタレスは後退。代わりに、ずっと彼らの後塵を拝し続けてきたシノンシンボリが先頭に立つ。
中山大障害の栄光のゴールを、まばらに6頭の馬が駆け抜けていく。その時ギャラリーには歓声もなく、完走した馬たちの一頭一頭に、静かな拍手が送られたと聞く。まるでこの凄惨な事故から無事に生還したことを祈るかのように。

彼は、馬運車の到着を待つことなく、ターフで息絶えた。トウショウドリームは、どうしても起き上がらせることができずに、その場で安楽死。吊るされて馬運車に入れられた。
騎手(現在調教師)の大江原哲は後に語る。「命を賭けて守ってくれた馬を、ぼくは忘れることができない」と。

ライバコウハク 1979.5.30生 1987.12.26死亡
        平地15戦0勝 障害27戦9勝  
        主な勝鞍  中山大障害(春) 京都大障害2回


散文(批評随筆小説等) 「名」馬列伝(1) ライバコウハク Copyright 角田寿星 2009-06-29 21:51:01
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