高原詩編
右肩良久

 昼間、光の底に沈んでいた高原の花が光を放ち始めている。引き潮の海が磯濱の窪みに取り残されるように、失われていく光が花をわずかに濡らしているのだ。白い花は白く、紫は紫に、黄は黄に。葉や茎は暗い空気と分かちがたい深緑に沈んでいるが、花だけは光って高原一面に広がっていく。

 夏時間の十時を過ぎても、薄明るい空が残っている。僕の歩く起伏は呼吸する女性の裸の腹だ。草の道。暮れにくい夜。沈んだ太陽の残光に赤かった岩山が、今ようやくぼんやり黒みがかったシルエットになっている。それは遠く世界のきわに、輪郭をにじませてかろうじて染みついていた。話すべきことは何もない。時々強からぬ風がかすかにものを震わせるほか、音もなかった。

 高原の緩い起伏の向こうに、ホテルが一軒見えた。大きな切石を積んだ広壮な建物が、各階ごとに一列に並ぶ窓のそれぞれから、こちら側へ強い光を放っている。まだ明るいうちには看板に「HOTEL」と書かれた文字も見えていた。僕はあの建物を夢に見たことがある。いつとも特定できないずっと昔、まだ幼児の時代のはずだ。だが、こうして歩き続けているのにいっこうに建物との距離が縮まない気がするのは、今もまだ夢の中にいるのかもしれない。夢でもなんでもないただの現実が、ここでは「退屈な現実」という形すらとりえないのであろう。現実が夢の領域に崩れ込んでいるというわけだ。

 ホテルの窓ごとに、それぞれ犬が顔を突き出している。時折低く唸る以外にはまるで鳴こうとしない。それらがみな口にものの魂を銜えているからだ。魂はゼリーのように甘く軽い歯ごたえを持ち、プルプルと全身で力強く身悶えている。犬は草原の彼方から僕の体の臭いを嗅ぎとりつつ、無表情に咀嚼を試みる。残念ながらあまりに遠くにあって、僕からは一つとして彼等を視認できないでいる。石のホテルが窓からギラギラと光を尖らせるのがわかるだけだ。だが犬は上下の歯列の間へと巧妙にものを捉え、大きく顎を動かしている。つまりこれが咀嚼というものである。

 そして僕に連れだって歩いているのは、モノのようでもあり、自分の感情のようでもあり、誰かの記憶のようでもあった。ここでは本来無いものがいつの間にか形を作ろうとするのだ。たぶんそうだ。半円に少し欠ける月が東に浮き、星が三つ出ている。


自由詩 高原詩編 Copyright 右肩良久 2004-09-01 02:23:05
notebook Home 戻る
この文書は以下の文書グループに登録されています。
四文字熟語