水に触れる
木屋 亞万

私は女ですから、髭を剃るようなことは一生ないものだと思っていました
私はいま髭剃りを手にしているのですよ
少女の私が聞けば目を引ん剥いていることでしょう
何でも機械化する時代ですから
剃刀の刃が丸い覆いに隠されるようになって、
稲を刈る機械と同じような振動音を響かせて髭を刈り取ってゆくのです

水に触れないで洗濯を済ますことができるようになって
赤く霜焼けた手の痺れに耐えて家事を行うことももうありません
そうなってから洗濯する回数は馬鹿みたいに増えて、
たとえ汚れていなくとも、すぐに洗濯するようになりました
そのせいで川は泡だらけになりました
作り話じゃありません
川が汚れたのは洗剤のせいという話もありますが
多分それだけじゃありません
私たちが水に触れなくなったからです
何がどうなれば一番よいのか、年を重ねるごとにわからなくなります
霜焼けは嫌ですが、川が汚れるのも嫌なのです

外の景色は代わり映えしません
窓の枠の中に、少し離れたところにある青い屋根が一つ見えるだけです
窓の枠は大きいのに、ベッドから見れば外はほとんど空なのです
空だけでは季節がわかりにくいように思います
空が水のように物静かだからです
だから貴方は、私のほうをじっと見つめます
服装や髪型や表情から季節を割り出そうとするように
何かを伝えようとするようにじっと私を見つめてきます
貴方は何も答えられませんが、私は貴方の目に応えるように
問わず語りを続けるのです

病の床に臥してからも、貴方の髭は驚くほど元気に伸びています
私はそれを髭剃りの機械で剃っていきます
たまに威勢のいいのがあって、刈り取れないほどに成長し
その弾力でもって剃刀を掻い潜る毛があります
私はそれを小さな化粧用のハサミで切り取ります
息子の爪を切ってあげたときに使っていたような白くて小さなハサミです

貴方は私が近くに寄ると私をじっと見つめます
貴方の鼻から垂れる水を拭き、管から溜まる尿の量を確かめます
貴方の水に私がこれほどまでに近づくことになろうとは
結婚した当初は思ってもみなかったでしょう
人生は思っても見ないことばかりです
美しいものばかりではないし、
何がどうであれば一番良いのかもわかりません

ただ貴方にこれほどまでにしっかり見つめられる日々も珍しいものです
二人とも健康であれば一番良かったのですが、
周りの人を見てみても、なかなかそういう訳にはいかないようです
私たちは今年、金婚式を迎えます
孫は大学を卒業し、もう一人の孫は大学に入学しました
私は春の服を着て貴方に会いにゆきます
空は気持ちの良いぐらいに晴れています

この部屋に大きな窓があってよかったと改めて感じるくらい
今日は綺麗に晴れています、
貴方がこうなってから私はよく空を見るようになりました


自由詩 水に触れる Copyright 木屋 亞万 2009-04-22 23:31:59
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