よねたみつひろ氏は、現代詩フォーラムでは「みつべえ」というお名前で沢山の詩を発表しておられます。みつべえさんが発行なさっている「風羅坊」という個人発行の詩誌の配布を申し込みまして、そのご縁で詩集を分けて頂きました。
詩集『鬱曜日には花を刈って』は手の大きさくらいの、薄いハトロン紙(?)のカバーがかけられている愛らしい詩集です。読みました全体的な印象は、爽やかさの中につらさが忍び寄る、という感じです。全然難しくない言葉でつくられているのですが、望んでも得られない、何かが失われている、という詩が多いです。何でしょう、この喪失感・・・。
ところで、この詩集の帯には、収められている詩「雨言葉」の一部分が載せられています。
かんまんな幸福がつづいているが
このいまも何かを言わねばならぬ
すべてを与えられても まだ足りないものと
すべてを奪われても なお残されるものは
同じはずだから
「すべてを与えられても まだ足りないものと
すべてを奪われても なお残されるもの」
って何だろう?とうーんと考えて、思い当たったのは、よく芸の人や職人さんが「一生稽古」とか「(芸や作ったものについて)満足できるということはない」と言う、あれのことです。つまり・・・芸術や、何かを作るというのは、どこまでやっても「まだ足りない」かわりに、身に付いたものは「すべてを奪われてもなお残される」ものだと。
私の勝手な想像では、この詩集の姿というのは、そういう、芸術とか、理想への飽くなき探求、求めても得られない絶望・・・だと思うのです。悲壮感めいた感じはなく、
私がはじめてとんだ空はふかく青く
反転しうらがえった からだごと
ささえてくれたのはやはりただの風だったのだろう
(同詩集「はじめて私がとんだ空は」より引用抜粋)
など、すっとふわっとしているのですが、求めても求めても得られないつらさ、というのもやはり感じられます。
ところでみつべえさんは、『童貞詩集』(1)あとがきによりますと、七十年代前半にひらがなだけの詩を書いていらっしゃったらしいのですが、同詩集では難しい漢字や「耳たぶの岬を ひとむれの蟹が離脱する」(『童貞詩集』「砂のひとへ」抜粋)といった象徴的な、イメージの炸裂する作品を書き、その後は「『現代詩』的な構文への反発」があり「短く、平明で、身辺的」な詩を書き(2)、数年前は「そろもん」シリーズとして五行詩を三年(!)に渡りおよそ千作もの膨大な量をかいておられます。「そろもん」シリーズは寓話的であり、かつ美しくも哀しくも面白くもあり、作品は年を追い、短くなるごとに凄みというか濃度がさらに増している気がします。高い技術をお持ちであるのに(あるからこそ?)一つのスタイルに甘んじないみつべえさんは、この詩集の姿と同じに「満足できるということはない」「追い続ける人」なのだと思います。
さて、話は続きますが、詩集『鬱曜日・・・』の冒頭にはこんな言葉があります。
父さん あなたの
ふところに育った鳥たちを
ぼくは撃ちおとしてしまった
鬱曜日には花を刈って
もっと荒野を広げましょう
この詩集の姿を「追う人」と考えてまたまた勝手に書きますが、「あなたのふところに育った鳥たち」とは、今まで大切にし、育んできた詩や詩の方法なのかもしれません。「ぼく」はそれを撃ちおとし、花を刈り、荒野を広げる。鬱曜日には花を買って部屋に飾って心なぐさめる、という人よりは、花を刈る人の方がかっこいいけど大変そうです。
私はみつべえさんの「そろもん」シリーズが継続しているというすごさに、いつも励まされてきました。詩は好きだけれど、他の方の才能や技術に打ちのめされることがしばしばあります。そういう時、みつべえさんの方を見ると、氏は淡々と詩作を続けておられ、それはまるで、広々とした荒野に小さな花を咲かせるかのような孤独で地道な作業です。何もさえぎるものもなく、常に風が吹きつけてきます。どうでしょう、私は自分を恥じると同時に、駆け寄りたいような衝動を覚えます。追って言いますと、みつべえさんの作品には、常に風が吹いている感じがします。詩とか、私とかに固執しないというか・・・。それはもしかしたら、作品自身さえもどこかへ連れて行ってしまうような風なのかもしれないけれど。いかに「かんまんな幸福がつづいて」いようとも、ここは荒野なのだから勝手に吹いている風、終わらない風、なのかもしれません。
最後に、「そろもん」シリーズで私の好きなのは、(探索の話)なのですが、全文引用させていただきます。
そろもん(探索の話)
本屋には 本がいっぱいあるのに
もうあれもこれも 読む時間がない
知命の午後の やわらかい光のなか
きまって本棚の隅に 咲くという
まぼろしの詩集を さがしている
詩を好きな人ならば心の中に、「自分のうまく書けた詩ばっかり入っている詩集」とか「自分の好きな詩人の好きな作品ばっかり入っているアンソロジー詩集」という見果てぬ夢のような、「まぼろしの詩集」があると思うのです。私は、この詩集によって、みつべえさんの追い続ける「まぼろしの詩集」の姿を、ほんの少し見せてもらったような気が、したのでした。
文中索引
『鬱曜日には花を刈って』緑鯨社 1997年
(1)北見詩の会双書 ?『童貞詩集』 平原書房発行 1995年
(2)よねたみつひろ『捧げる詩集』あとがきより
http://po-m.com/forum/myframe.php?hid=580