紙祭
葉leaf

 紙の上で紙を耕している潜在する文字たち。私は潜在する文字たちが融けて流れて、視線が紙の上を歩き易くなるのを待つ。耕された紙に植えられた潜在する色面が、潜在する光とともに組織され、私は色面と光とを、潜在する盲人の地位において潜在的に訴追する。
 白紙と私はそのように関係する。ところで白紙は特権的にあらゆる意識の色力から免れている。意識の落とす葉は白紙の斥力の刃に千切られて、白い愛として白紙と組成し合う。それゆえ、白紙は、意識の色彩的自己表現の権利を分解し、白さの維持を維持する。
 紙祭は紙の発明のときから絶え間なく続いている。あるときは言葉と言葉の輪郭の交わるところで。あるときは射殺された雲の先端が夕焼けを刺殺するところで。あるときは建物の影が夏の方角にばかり偏るところで。三六五日絶えることはない。
 紙祭を執り行う人は、表だけで裏を失くしてしまった人、または裏だけで表を失くしてしまった人である。空間はそのような人を許容しないし、何よりも表と裏から成る紙が許容しない。その紙の怒りを鎮めるための祭である。
 恋人と結婚した日、私は表を失くしてしまった。――紙祭の始まりだ。私の裏は潜在する文字たちに掘られ始め、私は裏としてその痛みの斜面の表と一体になる。つまり私は白紙のために祭壇を作るのだ。私の裏の意識が産気づいた色を紙へと際限なく分泌するがそれらは白い愛となる。つまり私は白紙を祭壇に祀るのだ。私はあらゆる言葉の裏に記された画家の名の、そのまた裏に記された物質を物語る。つまり私は白紙に対して呪文を唱えるのだ。最後に私は刺殺された夕焼けの裏で、夏の方角の裏が指す方角がすべての季節を混合していることを嗟嘆する。つまり私は白紙を祭壇ごと火にくべるのだ。――こうして私の紙祭は終わり、私は表を取り戻し、私と表裏をなす誰かの紙祭が始まる。



自由詩 紙祭 Copyright 葉leaf 2009-03-28 10:53:35
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