ちりのなかで
世古 和希
なんで人は肉のままではいられないのだろう。
朝の塵の部屋で思う。
自身の真空を真空のままにしておくこと
奪われたままのすがたで立っていること
うめようとしないこと、真空を、安易な他者への寄り掛かりによって
自分を高めることによって、他者と比較して、誰かをさげすむことで
なぜ、盲目にだれかを求めちゃ、いけないの?
なぜだれかをさげすんで優越を感じてはいけないの?
なぜ人は死ぬの? どうでもいい
なんで奪われるの? 自分の正体が明かされるだけのこと
真空をうめてはいけない、なぜなら、そこからは、たくさんの問いが提出されるし、銀河いっぱいの意味が創造されるし、真の自分自身が立ち現れて来る地平だから、埋め立てるなんてもってのほか。
それはわかってる、よ、わかってるよ? わかってる。何度でも、わかってる、繰り返し、わかってる、言い聞かせる、わかってるよ、わかってる、このききわけのない自分に、わかってるよ、って、何度も何度も繰り返し繰り返しこのききわけのない自分に言い聞かせる聞かせる聞かせる沈黙をいいきかせるきかせるきかせる
なにをなせばよいのか、も、
なにをしんじればいいのかも、
この真空がいずれおしえてくれると、思おうとして、
でも、たぶんだまったままだろう、それは、いつまでたっても
そこからなにを学べというか
つらいしごと、いずれにしても
つらいしごとが、もう自分がおとなになるまで待てず、
こうして寄り添って、歩いてくれている
いったいなにをわかれっていうのわかってる!
わかってないいつまでも!いつまでも!
いつまでもわかってないこのじぶんはわかってないわかろうとしていないこわがっているいつまでも真空にいつ敵がせめてくるのかいまかいまかとおびえてる!
敵はいない
真空の外部にはやさしさがあるとしるべきだ
不自由な精神、身体
なんでひとは、肉のままではいられないのかな
そっちのほうがらくじゃないか
いっそらくじゃないか
…こんなの、じぶんの真空を守るための戦いなどではなくって、
真空をつねに侵そうと妄想する自分自身とのたたかいであること
ウルフもドゥルーズもコフマンも、みんな、戦い抜いたということだろうか
かれらはまけたのでもなんでもない、ただ、かちどきのうちに自身をすっと消し去っただけなのだ、と、おもう。にげたのでもなんでもなく。
そうすると、勝者の自死など存在しないことになる。あるのはただ、無惨な敗者のそれと、勝負を超越しきった者のそれがあるばかりだ、れきしのなかできらきらとちらばって、きえた、でもまだのこってる、かすかに、超越する者のきらめきは消滅することがないのだ
沈黙だけがうつくしい
これを、野蛮なあの喧噪と対比させるかたちで存在させてはならない、それ自身で沈黙は、存在できるのだから
リビドーなど、どこへいったのだろう
死の欲動ではない、死の本能のまえに、多様な欲望の流れなど、はたしてあったのだろうか
それともたんなる自慰行為であれば、やっぱりあるのだろうか
こうした語りは、発されたとたんに消えてなくなればいい。
それができなかったのは、これが純粋なコミュニケーション言語ではなかったということ、だから、宛先不明のまま遠いどこかをさまよったままであること、その点に尽きる。この点において、もはや唯一ある誰かのもとへも届かないというこの絶望のなかで、みずから消失してしまうのが、一番うつくしい最期だったはずなのにである。