喪失としての時間−「存在の彼方へ」を読んでみる13
もぐもぐ

さて、「歴史」が呼び起こす「目的論」との対照において、レヴィナスがそれとは「別の仕方で」、即ち、「経過=喪失(英語ではlapse)」としての「時間」に注目して、その「隔時性」の中で締結される「責任」の倫理を説こうとしているのではないか、そういう展開を先に指摘した。

ここで、分かり難いのが「隔時性」の概念である。これは、「経過=喪失」としての「時間」のあり方そのものを指した概念と思われるのだが、とりあえずこの概念の内容を確かめてみなければならない。

まず、「歴史」の方については、レヴィナスの認識はこうである(第5節、「<他者>に対する責任」)。
「過去把持によって、記憶によって、歴史〔物語〕によって、時間はどんな偏差をも回収してしまう。・・・過去把持、歴史〔物語〕があるおかげで、何も失われるものはない。そこでは、全てが現前し再現前する。・・・すべてが書き留められ、エクリチュールに委ねられる。ハイデガーならこう言うであろうが、すべてが総合され集約されるのだ。・・・全てが実体として結晶し硬化する」(p37)
歴史(記憶)=現前=エクリチュール(書かれた言葉)=実体、という認識がここには示されている。これは既存の哲学に対する、ある意味トータルな批判である。思考する主体が、意識に上る事柄に基づいて物事を考えている限り、それは歴史(記憶)に依拠したものにならざるを得ず、またその記憶のうち「現前」(今現在において見えるような形で提示されていること)したものに限られざるをえず、その「現前」は文字によって記録することが出来、そしてそのように文字によって記録されたものこそが「実体」(物事の本体、本質)と見なされることになる。哲学(フェアに言えば、自然言語を使った思考一般)とは、「歴史(記憶)」=「現前」=「エクリチュール」=「実体」の優越により特徴付けられるものなのであり、「存在の彼方」を目指すレヴィナスは、その全てを敵に回して議論を進めざるを得ない。

勿論、このような事柄を批判したとして、一体何になるのだと言う反論がすぐに提起されることだろう。私たちは自らの記憶に基づいて物事を考えざるを得ない。歴史に頼って物事を考えていかざるを得ない。思考は常に今現在において遂行されるものであって、現前する以外の思考などありえない、若しくは意味がない。思考されたものは表現されるべきである、それは文字に記されることによってこそ、普遍的に共有可能な思想若しくは知識となる。そして、そうした文字の記録の積み重ね、人類の英知の中から析出されてくるものこそ、物事の本質というものではないか。これらの営みを退けて、思考や文化に一体何が残されるというのか。これを退けることは、思想の自殺ではないか、人間文化の自滅ではないか、と。

「歴史」=「現前」の擁護は、完璧に論理的な立場から為され得、それによって批判は完膚なきまでに沈黙させられるだろう。だが、それでもしかし、「懐疑論」は回帰する、とレヴィナスはそう言う(「いわゆる論理的思考は懐疑論に対して数え切れないほどの反論を、それも「反駁不能な」反論をつきつけてきた。にもかかわらず、懐疑論はこのような反論をものともせず繰り返し蘇生する」(p32))。「存在の彼方」を探し求めるレヴィナスは、「大胆な」(p32)「懐疑論」の立場を選択する(この点については、「大胆」な「懐疑論」と異なった「リアリティー(現実)」−「存在の彼方へ」を読んでみる8、を参照)。そして「歴史」=「現前」の立場に立つ思考から、見落とされているものを見極めようとする。それが、「経過=喪失(lapse)」としての「時間」である。

「しかるに、このような時間化のうちで、回帰することなき時間という経過が、どんな共時化にも逆らう隔時性が、超越的隔時性が告知されなければならない」(p37)
ここで「経過」として言及されているのが、「歴史」とは異なる「時間」である。「経過=喪失」としての「時間」は、「歴史」ではない。それは「歴史」から「失われるもの」である。それは、「どんな共時化にも逆らう」、つまり「現前」することがない。「経過」としての「時間」それ自体は、決して「目に見えることがない」。それは「歴史」=「記憶」とは異なって、「回帰する」(思い出される)ことは決してない。

「経過=喪失」としての「時間」が「現前」しないというのは、これを思考する際には極めて不利な属性である。これを取り上げて直接論じることが出来なくなる。けれども、「経過=喪失」という語は、その「消えた」はずのものの名前であり、証拠としてある。
ここには言語表現一般が持つ、ネガティブなもの(存在しないもの)を表現する際の困難がある。「有」、「ある」は、「〜がある」という語で直接に描写できる。実在の有と、言語上の有は、完全に一致する。つまり、実在の有は、言語の上で「現前」することが出来る。それに対して「無」、「ない」は、「〜がある」という語によっては描写できない。「〜でない」という否定的な語を、無限に積み重ねていくことによってしか表現できない。「〜でない」という描写は、これは消極的な要素を「描写」しているだけであって、それをいくら積み重ねても「〜がある」という積極的な定義にはなり得ない。「無」、「ない」は、実在としては存在していないものの言語レベルにおける「空虚な記号」(「0(ゼロ)」記号)に過ぎない。「空虚な記号」は、記号(実在/不在のものについての標識)としてしか存在せず、それ自体は「何物でもない」(「0(ゼロ)」が「ある」という表現は、矛盾である。「0(ゼロ)」は「ある」のでも「ない」のでもない。「0(ゼロ)」は、単なる「名詞」、「〜がある」という動詞抜きの、純粋な「名詞」としてしか、あることができない。つまり、「0(ゼロ)」は、現実においては存在していないものについての、言語(観念)のレベルでの「標識」に過ぎない)。

「経過=喪失」という語は、現実には存在してないものの言語レベルでの「空虚な記号」(標識)である。しかも、単に存在していないというだけでなく、終わってしまった、消え去った「変化」の「記号」(標識)である。レヴィナスはこのような「変化」の「記号」(標識)を「痕跡」という語で呼ぶ(例えばp43「責任は、現在を必要としない不可視のものが、現在を必要としないという事態そのものによってある『痕跡』を残すのと同じ仕方で応答する」)。

「痕跡」とは例えば足跡である。誰かが通り過ぎると、そこに足跡がつく。これが「痕跡」である。「痕跡」は、誰かが通り過ぎたという「事実」を語っている「標識」である。誰が通り過ぎたのか。足跡であればその形や大きさから、それを見分けることも可能だろう。だが、足跡をつけたその者が実際何者であるのかは、ここでは大して重要ではない。重要なのは、何かが「通り過ぎた」という事実である。何が通り過ぎたのか、それは「時間」である。「時間」は通り過ぎるとき、「皺」「老化」という形で、その「痕跡」を残していくのだ。別の言い方をすれば、何か分からない何ものかが「『通り過ぎた』という『事実』そのもの」、それが「時間」というものの定義である。

したがって、実在=言語、即ち「現前」可能なものである「歴史」に対して、「時間」は、実在しない、不在のものであり、「〜である」という「言語」によっては語ることのできない、「空虚な記号」としてしか現れず、即ち「痕跡」という形でしか私たちはそれを見つけることが出来ない。

かなりややこしい事態だが、このややこしさはレヴィナス自身も重々承知している。以前の節(第3節、「<語ること>と<語られたこと>」)に於いて既にその困難を繰り返し指摘していた。
例えば、「・・・「存在するとは別の仕方で」は、私たちの面前に翻訳されるや否や、語られたことのうちで裏切られてしまう。「存在するとは別の仕方で」を言表する語ることは、語られたことによって支配されているのだ。この事態は方法論に関する問題を提起している。<語ること>という起源以前のもの・・・が、主題のうちに現出することで自分を裏切るなどということはありえるのかどうか・・・。この裏切りを帳消しにすることはできるのかどうか」(p30-31)
「語られたことに組み込まれると、「存在するとは別の仕方で」はもはや、「別の仕方で存在すること」しか意味することがない」「「存在するとは別の仕方で」を語られたことから引き剥がすためには、「存在するとは別の仕方で」を言表する語ることは、語られると共に語りなおされなければならない」(p31)
「存在するとは別の仕方で」という部分を、「経過=喪失」とか、「時間」という語で置き換えてみれば、レヴィナスがこれを語ることの困難さをかなり強調していることが分かる。「時間」は、語られたその時点で裏切られ、「歴史」という「語られたこと」(言語=思考)に置き換わってしまう。「語られたこと」(言語=思考)から「時間」を引き剥がす、「歴史」という概念により変容させられてしまった以前の純粋な事実としての「時間」のあり方を見出す、それをするためにはどうしたら良いのか。上の引用文でレヴィナスが指摘している「方法論に関する問題」とは、このことである。


さて、かなり面倒な表現や議論が続出してきたが、言われていることは単純なことである。つまり、時間というもの、それは誰の目にも見えず誰にも触れることができない。けれども、「老い」という形で、それは目に見える「跡」を残している。私たちは「経過している時間」そのものを、リアルタイムで捉えることはできない。けれども、「老い」という「痕跡」の形で、私たちは確実に「時間」が「既に過ぎ去ってしまっている」ことに「気づく」のである。


それでは、レヴィナスは、何のためにこのような「当たり前の事実」を持ち出すのだろうか。


散文(批評随筆小説等) 喪失としての時間−「存在の彼方へ」を読んでみる13 Copyright もぐもぐ 2004-08-08 14:48:49
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