記憶に巣食う鬼
小野カオル

 過去のことを思い出すことが極端に少ないと気づいたのは30代に入ってからだった。「何も覚えていない」と人に言われることが時折あるのだ。そもそも私には思い出話をする習慣も無い。そう、私は「今」か「これから」のことしか考えない性質らしい。それはいつも未来を見ているとかいう格好の良いことではなく、過去から逃走したかっただけかもしれない、と少しだけ過去を振り返ることができるようになった今思っている。過去の何から逃走したかったのかは分からない。ある事柄なのか、子供時代という無力な身の上すべてからなのか。ただ、幼い頃すでに私はまわりの世界との分離を感じていた。私は皆と手をつないで輪の一部を成している人間ではなく、輪の真ん中に座り込んで手で顔を隠している鬼だった。

 そんな空っぽの記憶の中でも覚えていることもある。小学校3年生くらいのときだ。私は一人テレビドラマに釘付けになりながら、止め処も無く涙を流していた。涙を拭うティッシュ箱が空になり、タオルも間に合わず、今度はなんとバスタオルがびしょぬれになった。人の体からそんなに水分が出るのだ。2時間ほどのドラマが終った後も涙はしばらく出続け、私はぐったり疲れて座布団の上に横になった。

 ドラマのタイトルは「イエスの方舟」。千石イエスと呼ばれる男と彼を慕う若い女性たちの実話を基にしている。布教活動と聖書の勉強会を行う千石のもとに、家庭に居場所が無いと感じる若い女性たちが集まり、やがて共同生活に入る。女性たちの親は娘を取り戻そうとするが、彼女たちは共同生活から離れることを頑なに拒む。女性達とその家族はお互いを理解することができない。信仰心を軸にした千石と女性たちの絆は、親やマスコミ、警察を敵にまわしてより強まっていく。家庭に安らぎの場を見出せない彼女たちにとって、絆を感じられる方舟の共同生活の方がリアルな手ごたえをもたらしたのかもしれない。

 ビートたけし演じる千石イエスの実直そうな表情と耐えているような肩や背中が目に浮かぶ。世間や警察を敵にまわしても信念を貫く、もう若くはない男。そういう男を中心に一丸となっている娘たち。彼らの寄り添う姿に私は強烈に反応したのだ。こう思い出していると、

 ジツノカゾク、という言葉が頭に浮かんだ。

娘たちは、血のつながりではなく信仰のつながりを選んだ。若さ故だろうか。彼女たちにとってのジツノカゾク−本当の家族−はこのとき、心が結ばれた他人だった。

 彼女たちの求めていたものが幻のようなものであったとしても、それを求める切実さは否定できない。輪の中に座り込んで手で顔を隠している鬼、彼女たちもそんな自分の姿を見たことがあるのかもしれない。おそらく彼女たちは、その鬼を信仰の光によって救おうとした。そして私が記憶の彼方に押し込んでいるのも、その鬼なのだろうか。懐かしい、心の底に棲む小さな鬼は、いつでもジツノカゾクを恋しがっている。



散文(批評随筆小説等) 記憶に巣食う鬼 Copyright 小野カオル 2008-11-14 01:12:35
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