かがやかせるもの つづき
白井明大
意味が、ことばを輝かせる。
というのはどういうことだろう、とこのところ考えています。
その途中経過のようなことを書きたく、書いています。
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ことばとは、意味を伝えるものである、また、そのときのじぶんの内面を表すものである、といった伝達や表現といった機能にばかり気を取られすぎていたのかもしれないと思いました。
むしろ、ことばは、それ自体が、あたかも手にとることのできるような、ひとつのものだと、もっと捉えてあげてもいいのかもしれない、と。
もちろんことばですから、意味がひっついてくるわけですが、それだけではない、などと空想してみます。
たとえば湯飲み茶碗のように、手にとることができる、ものであることば。
ことばが並べられたとき、そこには、いくつかの湯飲み茶碗が並んでいるのだとみたとき、そのとき、何かの拍子に湯飲み茶碗が素敵にみえる、といった、ものを眺める目でことばをみたときに輝いてみえる、とそういうこととして。
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さびしい言い方をしてしまえば、吉本隆明のいうことばの「自己表出」の面が助詞や助動詞や副詞などに表れやすいことをふまえ、先に挙げた貞久秀紀の詩「木橋」のなかで、助詞などの語にどのような「自己表出」があり、それがこの詩人独特の思いの表れとしてあるとき、詩の意味内容に惹かれるさなかに、「自己表出」が感じられる箇所ごとに、詩人その人の姿をさえ感じてまぶしかったのではないかと。
そうしたふうに解釈して済ませてしまいたくないのです。
ことばの働き、ではなく、ことばの働きがないところ、について考えてはどうだろうかと思っています。
表出するものではない、ただそこにあるものとしての、ことば。
さて。
(つづく)