可逆的であるということ
西日 茜
あなたは、物事の些細な変化は、一見なんの脈略もなく飛散もしくは移動や変形し、それは意味をなさない現象だと思うだろうか…。
しかし、それが有機的に結びついているのだという説は面白い。たとえば、クリップの山のなかに磁石を投入しては引き揚げ、いくつかのクリップが吸着するという動作を繰り返したとする。根気よく繰り返すと、あるとき突然すべてのクリップが磁石に吸着する。
微動は一定の方向を目指して進み始める。それは突然大きな変化を見せる。これは発達心理学でいうピアジェの統合とか共応とかということに共通している。
幼児は様々な失敗を繰り返し、あるとき一つの発達段階のステージをクリアする。そしてまた次の変化に向けて発達を繰り返す。このことは、人間が可逆的でなければ成し得ない。幼児は様々な葛藤を経験し、その反応の過程は類似しているが、記憶や見当識に何らかのズレや異常がある場合、この些細な変化に過敏反応し、パニックを起こすのではないだろうか…。
フラッシュバックが起こる。嫌な経験や恐怖。それを克服するための代償行動として葛藤が起こり、徐々に内なる変化を経験し、やがて昇華され、恐怖は完全とはいかないまでも小さくなっていく。とりあえず健常とされる者たちでさえ、精神は肉体とは切り離され、複雑であるがゆえに不完全だ。肉体は完全に成長を遂げても、精神は相変わらず不安定だ。
このまま、わたくしの精神は成長を遂げずに、モラトリアムな不完全を維持する。そして不完全なまま死んでいくのだと思う。なにも分からないまま…。神になんてなれないのだから、これでしょうがないと思うのだ。