コミュニケーションとは最初の15秒かどうかについて
渡邉建志

どうしてこんなに人の心は揺れ動くのだろう。振られたと思えば好きといわれたりして、どうして喧嘩しながらぼくらは抱き合ったりするのか?そして彼女は挙句の果てにぼくの欠点である、空気の圧倒的な読めなさ、幼稚な挙動不審、礼儀のなさ、将来の人生に対して具体的に向き合っていないこと、等を的確に突き刺して帰っていく。彼女は「どうして?」という言葉をよく使うが、この言葉が責めたてる響きがあることを知らない。彼女は具体的にきっぱりとした答えをいつも求める。コミュニケーションは最初の15秒で惹きつけなければ相手は聞いてくれない、しかしきみの話はいつも長い、と言う。コミュニケーション能力がない。そんなことだから、きみはいつも自分の話ばかり得意がってする人だという印象を人に与えるのだ、と言う。そして具体的にぼくのことを「あいつはほんとに自分のことしか話さないよね」といっていた人の名前を挙げ、また、「あいつほんとだめだわ」といった人の名前を挙げ、僕を叩きのめす。言いたいことを第一に言えというのはそれはビジネスではないのか、愛や興味をそんなふうに話せるのか、と僕は問う。僕の話し方は、僕の文章を知っている人ならみんな知っているとおり(僕の文章は僕の話し方そのもので笑えると誰かが教えてくれた)、回りくどく長い。もはや回りくどさや長さに価値を見出しているのではないかと自分でも思うほど同じことを同じことを何度も言ったり搦め手から回ったりする。ものをダイレクトに言ってしまう石原慎太郎みたいな人が僕は苦手だ。最初の15 秒に含まれてしまわない「リンボのようなもの」を大切にする村上春樹を僕は愛する。でもみんながみんな村上春樹を愛する僕を愛しているわけじゃない。だから僕がぐるぐると一つの主題のまわりをまわりながら「やっぱりわかんないよね」みたいな結論に終わるのをみて人はいらだつ。結論を先に言えという。人を惹きつけろという。そんなこと僕だって知っているよと思う、結論ファースト、そしてビコーズだ、英語の順番で話せ、だ。なぜなら理由よりも帰結のほうが重要だからだ。だけど恋人との間までそんなことで突っ込まれ続けなければいけないのか。すべての会話が明確でなければならないのか。「わたしに認識できなければそれはあなたが思っていないのと一緒よ」と彼女は唯我論のようなことを言う。僕はそれは違う、ということを例の長々したいいまわしで対抗するが、それは彼女によってすぐに遮られる。なぜならその話し方が気に食わないから。面白くないから。そうやって僕の主張はまたしても≪彼女に認識されないので、ないことになってしまう≫。話は僕が使った言葉の揚げ足取りに終わる。僕は揚げ足取りだという。彼女はでもそれがあなたがそのように言ったと私が認識したからだ、私が認識できるように話さないあなたが悪い、と言う。なぜ歩み寄ろうとしないのか、と僕は言う。誰しもが歩み寄ってくれるわけじゃない、と彼女は言う。その証拠にあなたはいろんなひとにあんなことやこんなことを言われている。それを聞いて僕は胃を痛める。世の中全てがよってかかって僕のリンボぐるぐる口調をとがめる。何がいいたいのかわからない、要点を15秒で述べよ!欠点は拡大していく。男らしくない。くねくねしている。ぴょこぴょこしている。自信がなさそうだ。挙動不審だ。困難に立ち向かおうとしていない。僕はうなだれる。もはや何もいえない。最後の主張に対しては小さな声で「だって鬱だもん…」という。彼女は鬱のせいにして自分の殻にいつまでも閉じこもっているのね?と言う。なんでそんなに責め立てるのだろう。こんなにも汚い膿のような僕をなぜそれでも好きだというのか。好きならどうしてこんなに一番言われたくないばかりを責め立ててくるのか。しかもそれはもはや反論ができないことばかりだ、なぜならそれには僕の欠点と言う動かしがたい証拠がある。反論すれば自己弁護になる。そして僕は押し黙る。彼女は言う。あなたは過去の話と映画の話しかしない。いや、本の話だって、とぎりぎり抵抗すると、難しい本でしょ、興味ない。いや、夏目とかも、ううん、興味ない。それではなぜ好きなのか。人はほめられず貶され続ければ萎縮してその人を見るだけで動けなくなってしまう学習効果があるということを知らないのか。でも僕にはその一言はいえない。僕は真理など説きたくない。彼女は真理ばかり説く。真理合戦してどうするのか。パリサイ派対イエスキリストか。真理とは人間の歴史的な経験から帰納され一般化された常識だ。そんなものをいま生きる人間の会話で常に出され続けたらたまったものじゃない。なぜ彼女には彼女の言葉で話すことができないのか。日本語は15秒で話せるようにできていない。それは英語のシステムだ。西洋のシステムだ。日本語には日本語の話し方がある。それは順接で結論を最後に持っていくやり方であり、その過程を時間を追って楽しむという言語だと思う、だからまともに美しい日本語は討論に向かないと思う。対談本という独特な文学形態があるのは日本だけだ。アメリカのディベートはプラグマティックだがそれが文学的に面白いかと言うと疑問だ。対談は歩み寄りと駆け引きの過程の文学だ。ノーベル文学賞をとった大江健三郎がNHKの討論番組で有能な働きをしていたかと言うとそれは疑問である。しかし彼の日本語は歩み寄る人にとってはすばらしいものに思えるのだろう。彼女に対して僕が本当に言いたい内容は、「誤解を生みがちな大事な部分」をそぎ落としてしまって核だけずどんと言ってしまう彼女の美しくない日本語の話し方に即して言えば、ただの一言ですんでしまう。欧米か。


散文(批評随筆小説等) コミュニケーションとは最初の15秒かどうかについて Copyright 渡邉建志 2008-10-27 12:24:08
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