詩の領域2
パンの愛人

 以下は、自分が前回投稿した文章から発展したものである。そのため、これだけを読んでも話のつながりが判然としない場合があるかもしれない。それはともかく、まずは実川氏の反論を聞いてみよう。

文学は、文学の外部にあるテクスト、例えば社会や政治やジェンダーや恋愛やピンサロやピザ一切れを「取り込んで」(あるいは取り込まれて)いくシステムだというのがボクの論。つまり、文学と文学以外の区別や、詩と詩以外の区別は実質の上では不可能であり、だからこそどんどんみんなでモノを持ち寄って膨らもうぜ!というのが論旨。みんな違う本を読み、違う経験をする、それを文学−詩という形でフィードバックすれば、いつか「現代詩」が歴史の上に結実するかもしれない、と。

ボクはそういった世界を以って「文学」と呼んだ。人によっては別の呼び方がある。「世界」とか「エクリチュール」とか「ノマド的リゾーム」とか「エピステーメー」とかね。つまり、あのテクストが最終的に言いたいことは「詩とは何か」という問い立ては、はっきりと無意味だという皮肉だったりもする。それがボクの「詩とは何か」という散文。

そして、それはぼくがネタ元に使ってる「文学とは何か」という本へのオマージュでリスペクトでパスティーシュでアイロニーだったりもする。というわけで、その問い立てはあなたの言う通り「寝言」なのだ。寝言で「寝言を言うな」と言ってみせるのが現代の真摯なる主張だと思うのだが、いかがだろうか。


 サルトルもテリー・イーグルトンも、今までなんとなく敬遠していたのだけど、こうなってみると自分の勘は正しかったのではないかと思われてくる。
 しかしそれにしたって、この反論はあまりに文章が破綻している、か、説明不足にすぎる。
 冒頭では「文学」にたいして「社会や政治やジェンダーや恋愛やピンサロやピザ一切れ」を「外部にあるテクスト」としているのに、そのあとすぐに「文学と文学以外の区別や、詩と詩以外の区別は実質の上では不可能」とつづく。こういった矛盾した発言について、まず考えられることは、その発言のどちらかが間違っているか、どちらとも間違っているかのいずれかである。好意的に解釈すれば、「動的なシステム」を説明するのに「内部/外部」といった空間的な比喩を用いたことが間違いのもとになっている、ということになる。しかしそのあとにもつづいて「文学−詩という形でフィードバックする」とあるのだから、話はいよいよ奇怪になる。

 実川氏はあらゆるものを「取り込んで」(あるいは取り込まれて)いく世界を「文学」と呼ぶという。また、ひとによってはそれを「世界」とか「エクリチュール」とか「ノマド的リゾーム」とか「エピステーメー」とかと呼ぶという。なにもそんな衒学的な言葉を使わなくとも、もっと広く一般には、たとえば「ロック」がそのように解釈されているふしがある。
 いずれにしろ、たしかにこれらは寝言のひとつで、意味はほとんどないに等しい。それよりも「取り込む・取り込まれる」といった「動的なシステム」は「文学」の属性のひとつにすぎないと考えた方がいいのではないかと思う。実川氏のように属性と本質を取り違えると途端に話がナンセンスにおちいってしまう。
 本当を言えば、「取り込んで」(あるいは取り込まれて)いく以上、それはやはり空間的な領域を形成しているとみるべきだろう。もしかしたら、その領域をひとは「歴史」と呼ぶのかもしれない。文学でもロックでも「そんなのはとっくの昔に○○がやってるね」というスノッブな振舞いが存在しうる所以である。

 「取り込む・取り込まれる」のはあくまで部分的なものにすぎない。たとえ「文学」が何を取り込もうとも、それが文学作品である限り、かならず兌換不可能なものが残されているはずである。そしてその残されたものによって、ぼくらは文学と文学以外の区別をつけている。
 言うまでもなく、何をどのように取り込むかは、その作品ごとに異なる。これを裏返せば、何を残すかは作品ごとに異なるということである。その傾向性が、作風の相違にあらわれると考えてもいい。

 ぼくはけっして「週末のピンサロ通いや一切れ残ったピザの気まずさを引用-参照して詩を書くこと」に肩をすくめたいわけではない。なぜなら、そこにはすでに書かれた「詩」という作品が存在しているからである。そしてその作品の制作過程における心的状態には、それが作品として成立する限り、なにかしらの規範が想定されているはずである。もちろん、その規範は自分がいままで読んだすべての詩から抽象されたものである必要はないし、自分が直接引用−参照するものへの意識が強く、その作用に気づかない場合もある。しかし、先週のピンサロを引用−参照して、今週のピンサロに通うだけでは、たとえかれがそこに一篇の詩を覚えたところで、その「詩」がぼくらを魅了するかどうかは疑問である。運がよければ、ピンサロ嬢にドン引きされることはあるかもしれないが。

イデオロギー闘争をすることも、悪くないと思うのだ。少なくとも、誰かがイデオロギーを主張しているうちは。「あなたがそう思うのは自由だが、ボクはそうは思わない、ボクはこう思う」(その根拠はこれこれこのようなものだ)そういうのが、大事じゃないかと思うんだ。


 という実川氏だが、こういった左翼的心性も元ネタ作者たちから経由したものなのだろうか? それはともかく、「詩とは何か」という問い立てにたいして「あなたがそう思うのは自由だが、ボクはそうは思わない、ボクはこう思う」というのは、「『詩とは何か』という問い立ては、はっきりと無意味だと」考える実川氏には難しい行為だと思われる。なぜなら、問いを放棄してしまえば、ボクは何も思わないはずだからだ。すくなくとも「あなたの思うこと」と「ボクの思うこと」は同じ「思う」でも次元が違う「思う」である。それをイデオロギー闘争と呼べるかどうかは知らない。ただ、「ボク」と「あなた」の会話がひどく噛み合わないであろうことは想像がつく。


散文(批評随筆小説等) 詩の領域2 Copyright パンの愛人 2008-10-02 14:51:13
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