作者より:
前置きは省いて、さっくりと答えておきます。
>「矛盾してませんがな〜」について。
いつのまにかAという地点が想定されている。
それはともかく、「A地点に立つB氏」は「文学と文学以外の区別や、詩と詩以外の区別は実質の上では不可能」とは考えていなかったからこそ、結果として「ブンガクした」わけである。となれば、「文学と文学以外の区別や、詩と詩以外の区別は実質の上では不可能」というX地点に立つZ氏が「ブンガク」することはない。すくなくともその必要性はまったくないと言ってよい。なぜなら、その地点ではこの世に文学でないものはひとつも存在しないわけで、ことさらに「ブンガク」しなくとも、すでにそのことが文学であることになるからだ。
ぼくの意見では、Z氏はバカであることはあっても文学者であることはまずない。
ぼくはすでに説明したように「ピンサロを参照−引用したものはブンガクに在らず!」などと言いたいわけではなくて、というのも、娼家を舞台にした小説や詩がいくらでもあることぐらいは心得ているからだ。
>「よーし、さぁ根拠出せ」について。
これに関しては、上の解答ですでに済んでしまっているのだけれど、もっと言えば、それは作品ごとに異なると考えた方がいいと思う。もしかしたら「歴史的・権威的にそれが文学として取り扱われている」というのも、充分な根拠になりうるかもしれない。この点はT・S・エリオットの論ずる秩序の問題が、ぼくには適当であるように思われるから、直接そっちにあたってもらった方がいい。
>「シュール系統の人辺り、マジギレしそうな文章ですな。」について。
なにもこれには神通力を必要としない。「『想定されてある』の根拠」は、逆にそのように考えなければ、こうも万人が同じスタイルを採用するとは思えないからである。作品のスタイルがすべて自然発生的に生まれたものと考える方が不自然だと思う。実際、詩を書くには、過去に書かれた詩作品に接した経験が不可欠だと思う。実はこの点も、ぼくの考えの多くはT・S・エリオットに負っているのだけれど、それはともかくとしても、こう言われてマジギレする人なんて本当にいるのかしら?
>「全ての思考が明確な問い立てに根ざしてるって、どこの信仰ですか?」について。
これは話を勝手に「全ての思考」にまで広げるから、そういうことになるのだと思う。「詩とは何か」といったら、それは「腹が減る」という生理的な問題とはまたべつの理知的な問いのはずだ。
しかし、「何故、詩を問う問い立てが成立し続けるのか?」という問いに、「詩を定義することは無意味だ」というテーゼはスライドしないと思う。また、「『詩を定義することは無意味だ』というところまでいかないと、詩という概念の包括的な形は見えてこないと思う」というのも、「詩の定義は無意味」説は何世紀も前から提出されているわけで、それでも一向に包括的な解答が発見されていないのであるから、議論として説得力はないように思う。
ただこの部分の文章に関しては、ぼくはほとんど意味が分からない。
>「文学の本質(笑)に関するツッコミは終えたので、これを最後に」について。
「本質」「属性」を曖昧な了解のまま深入りするのは危険だと思う。すくなくとも、共通の理解があってからの方がいい。
ちなみにぼくがサルトルの名前を出したのは、「文学とは何か」という本のタイトルからの連想であって、すでに述べたとおり、ぼくはサルトルもイーグルトンも読んだことはない。正直に言えば、両方とも読んだことがあるけれど。
---2008/10/08 00:47追記---
これもまたさっくり答えておきます。
>共通の了解が既に成立しているところから(知っている人間に敢えて)「オマエの理解はどうなんだ、アアン?」ってやられるのは気分のいいところではありませんね。
については、自身で「AやBやCの要素をチラ見せして『ぼくはこの辺よく理解してるけど、きみはどうよ?』と身内ウケを狙うという手」を認めているのだから、そんなことでいちいち気分を害する必要はないと思う。しかし、
>Z氏の立ち居地は、デリダに文句言ってください。マンでもいいです。あるいは、ボクの説明が極めて下手ということでもいい。(読んでいる方は理解されてくださっているので、この議論には問題ありません。そうですよね?)
というのは、どうだろうか。こう書いたそのすぐあとで「『エリオットかく語りき』は何の根拠にも、ならない」やら「T・Sエリオットの名前にたいした意味はありません」やら書ける神経をぼくは疑うけれど、こういうことに拘泥するのはぼくが無神経にすぎるからだろうか? いずれにしろ、「この議論には問題がありません」とのことだから、ジャックデリダやポールドマンは「共通の了解、あらゆる反論を踏破出来る論理として完成」しているのだろう。ぼくは両者とも読んだことがないけれど、言われたとおり、文句はかれらにたいして言うことにしよう。
ただ、ひとつ気がかりなのは、「共通の了解なのではなく、反論を呼び起してナンボのシロモノ」というところで、それでは、一体なんのためにこの短い人生の時間を犠牲にしてまでわざわざ反論を呼び起こさなくてはならないのだろう? それを、根性がひん曲がっているから、と説明するのはあんまりだろうか? もしそうでないとしたら、その本意はどこにあるのだろう? それもやはり「共通の了解」への一形態ではないのだろうか?
また、イーグルトンを読んでいる人がどういう発想しようと、それは個人の自由のはずである。なにも口真似しなくてはならないという規則はない。ついでに言えば、そちらは「文学論的常識」かもしれないが、こちらはただの「常識」の立場に立っていると自認している。といっても、「常識」はだいたいが曖昧な理解で成り立っているから、いざ仔細に話を進めてみれば、ずいぶん常識はずれなことになるかもしれない。
せっかくなので、ぼくの「常識」を話すと、次のようになる。たとえば「ピンサロを参照−引用して、『ブンガクした』」うんぬんという。で、まず「文学に取り入れる」とはどういうことかというと、素直に考えて、小説にピンサロの場面があるとか、その経験を元に書かれた詩であるとかになる。もちろん、他にも取り込み方はいくらでもあるだろうが、これらも「取り込んだ」一例であることに違いはない。しかし、だからといって、それによって「文学」と「ピンサロ」が区別不可能になったなどということがありえるだろうか? ピンサロの場面のある小説を読書する(した)ことと、初対面の女にお金を払ってフェラチオしてもらうこととの区別が、実質の上では不可能などと本当に本気で言えるのだろうか? もちろん、経験と経験が連想で結びつくことはいくらでもある。しかしそれを逆に言えば、「(ピンサロ)文学」経験と「ピンサロ」経験が連想で結びつかない場合もいくらでもあることになる。ぼくの「常識」のはだいたい以上のようなものである。
で、となれば、当然のことながら、ぼくは文学の特権的・独占的な快楽を認めることになる。ぼくが文学に開眼したのが割と遅かったかもしれないけれども、なぜ文学を読むのか? という内省がいつからか習慣になってしまった。だからというわけでもないけど、「ことさらに『ブンガク』しなくとも、すでにそのことが文学である」という立場にはなにか欺瞞的なものを感じる。ぼくが逆に尋ねたいのは、そのような立場にいながら、あなたがことさらに『ブンガク』するのはなぜか? ということである。その解答に「文学の兌換不可能性」が含まれているように、ぼくは思う。だから、そんなに論文が書きたいならば、自分自身に尋ねてみるのが一番の近道じゃないのだろうか。
スタイルについて言えば、ぼくはすでに次のように書いている。
「言うまでもなく、何をどのように取り込むかは、その作品ごとに異なる。これを裏返せば、何を残すかは作品ごとに異なるということである。その傾向性が、作風の相違にあらわれると考えてもいい」
したがって、「言語によって書かれる」は充分スタイルのひとつであろう。「言語秩序に従わない作品」も「言語によって書かれ」てるわけだからいいとして、「音だけの詩」というのはどういうものだろう? これだけじゃちょっとぼくにはよく分からないし、ただ「白紙を詩として提示」というのは「詩として提示」するところに眼目があるわけだし、「口伝されたもの」というのも、いまいち判明でない。
ぼくは文学欲を解消するのが文学であると思う。性欲はピンサロで充たされる。あえて言えば、それが?への解答である。もちろんそれが計量的に測定不可能だからといって、すなわち「存在しない」ということにはならない。また、?に答えれば、?に答える必要はないと思う。
しかし、この点に関しては教育ということも大事だと思う。たとえば、ぼくは絵画鑑賞の趣味がまったく欠けていて、絵画論のたぐいはときどき読むけど、絵を眺めて何が楽しいのかよく分からない。そこに何ら特権的なものを感じない。つまり「絵画欲」がないのである。これは、おそらくその能力が未開発だからということになるのだと思う。教育とは結局自己教育以外にないのであって、文学に関してもその点は同じだと思う。
こういうのも、ぼくはあなたがすでにその能力を持っていることをまず確信しているからである。そもそものはじめ、ぼくはいとう氏との対比でその文章を読んだのだけれど、一方が詩の外部のひと(つまり、詩に興味がないか、あるいは興味を持ち始めたひと)への啓蒙だとすれば、いま一方は詩の内部のひと(つまり、詩に興味があり、それなりの知識を持つひと)へ向けた啓蒙であったからで、ああ書けるのは、取替えのきかない文学の味をすでに知っているからだと思うのだ。
で、最後に、文学が定義不可能だと抗弁するのは分かったから、今度は「絵画」でも「アニメでも映画でも何でもいいんだけど」、そういった「現代文化」の何かについて試みに定義してもらいたい。ぼくの予想だと、結局はどの場合にも「文学」の際と同じ無能力を露呈するのではないかと思う。