純粋正義への架橋19
チャオ
僕の正義とは何か?
()
エミリディキンスンからの一節。
これほどまでに、人間の願望、正義を彩った言葉はないのではないのだろうか。そう、僕は考えるのだ。一つの存在を、存在たらしめん行為によって、私という一人の存在は、この世に存在する意味を持つ。
他者と自分の関係が、これほどまでに純粋に描かれ、かつ、よりよきものへと目指すものはないのだ。
僕が存在するに必要な、世界を構築する他者。反面、他者にとり、自分は世界を構築する他者となる。ひとつの存在は、すべての存在の頂上にいることを僕らは忘れてはいけないのだ。
僕らの行為は、すべて、歴史の頂上に表象された行為であり、人類の代表となる。この大事な言葉から、エミリディキンスンの控えめで、純粋な言葉へと移行していく道のりは意外に早い。
単純な話だ。ホワイトヘットは()といった。
まず、僕らは生きるだろう。だが、その行為が充実するに従い、僕らは僕らに宿された才能に気がつく。それを発揮するために、何らかの苦しみへと向かう。たとえば、オリンピック選手を目指すとか、そういったものだ。その目標が定まったとき、人は、自分に宿命付けられた自分自身を超えようとする。
ひとつの存在を救う。その行為は、ひとつの可能性を救い出すことになる。その可能性とは、ニーチェの言う「超人」への可能性なのだ。僕らは僕らを常に超えようとしているのだ。誰かを救うという行為によって、この世界に存在たらしめんと。
なんと無味乾燥な論法なのだろうか。
ただ、僕は、エミリディキンスンのその崇高な魂をあがめられさえすればいいのだ。人の上に人は立ち続けなければいけない。だが、その頂上を高く、高く、天へとより近く伸ばすほかないのだ。だが、悲痛なことに、誰もがその頂に上ることは許されない。誰もが、誰かの命を救う機会に恵まれることは。いや、誰かが、悲しみにうずくまる姿を、僕らは僕ら自身のために見たくはない。
()助けるように、誰にも悟られることなく、ただ執拗に誰かを救うことができればいい。
僕は、無力を味わうだろう。ひたすらに、僕は、無力を味わうのだ。誰も救い出すことはできない僕の力を。だが、僕が発するその言葉に耳を傾けてくれる誰かが、誰かを救い出してさえくれればいいのだ。僕はエミリディキンスンではない。だから、僕は、僕の生きる意味を、誰かに投影することさえも許されてはいないかもしれない。だが、もし、僕が誰かを救うことができたなら、僕はエミリディキンスンのように表現するだろう。僕の存在は意味あるものだったと。