「兎」
菊尾

「折り入って相談があるんです。」

昨今この国では容易に学校へ忍び込ことができない。
僕が小学生だった頃よりも夜勤警備員の数が二人ほど増えていた。
ある夜の帰り道。酔いの勢いを利用してフェンスを乗り越え母校のブランコを揺らそうと忍び込んだ日のことだった。
ブランコの近くには体育倉庫、その隣には飼育小屋がある。
何度かブランコを揺らし、分かってはいたがブランコの揺れに酒の酔いがブレンドされ、あともうすぐで逆流してしまいそうだ月の輪がブレて焦点が焦点が!と内心騒いでいた。
その自身の内面的狂騒に呼応するかのように飼育小屋で金網を掻く音がした。
ブランコを扱ぐ音がうるさすぎたか、すまない小動物よ。と反省しつつその場を後にしようと、ふらつく足取りで歩き始めたのだが、なんだか気になってしまいフェンスを乗り越えずにその飼育小屋へと向かった。

飼育小屋の中に居たのは一匹の兎。
暗闇の中、金網に小さな前足をかけて騒いでいた。
檻の中で叫ぶ小猿のように暗闇の中でも判別できる真っ白な身体を一生懸命に振って必死な様だ。
兎っていうのは一般的に大人しい動物なんじゃないのか?
端っこでうずくまって、もしゃもしゃとレタスかなんか食ってコロコロした糞をする生き物じゃないのか。
それをなんだ、この兎は。ガシャガシャと、まるでここから出してくれと言わんばかりに。
僕は呆然としていた。酔いも醒めつつあったが、酔いの一興か?と疑う自分も居た。
「あ、すみません。近付いてきていたことに気がつきませんで騒ぎ立ててしまって。何分、目が悪くて。」
兎、いや動物の類は気配に対しては敏感なのでは?と訝しむがそもそもの間違いに気が付く。
話した?兎が喋った?!
「え?!」目玉が零れ落ちそうなぐらいに驚いたが、両眼は確実にその兎を捉えているので零れていないことに安堵する。

「ああ、違います。話しているのではなくテレパシーです。念話というやつです。人語は話せません、私の身体構造では。」

確かに脳内に直接響くようなこの不思議な音のような声。
振り返って辺りを窺うが誰かがいる気配はしない。暗闇なので僕の感覚も鈍化しているのだろうし何よりも酔っているし、自分の五感は今完全に当てにならない状態であった。
そこで改めて気がつく。そうか、僕は酔っているんだ。もういい。帰ろう。
そう思うと即座にその声の持ち主が慌てた様子で語りかけてきた。

「いえいえ、しばしお待ちを。すぐに終わるのでどうかそのままで居て下さい。」
そんな事言われてもなんだか薄気味悪いし、と戸惑う僕を尻目にその声の持ち主(恐らく兎なのだろうが)は続けて言う。

「折り入って相談があるのです。」
まさか真夜中の飼育小屋で兎から相談事を持ちかけられるとは。誰かに話したら本気で心配されそうだ。
な、なんですか?若干怯え始めた僕の声は口に出していたらきっと震えていたことだろう。
しかし今現在僕は念話というものに興じていて、それは大変便利なもので声に出さずとも思っただけで相手に伝わる。
第三者的に見れば今のこの状況は不審な男が飼育小屋の前で立ち尽くしている図になるのだろう。

「え、あのなんですか?」
「えぇ。単刀直入に申しますとアヒルのガーコの事なんです。」

アヒルのガーコ。奥を見やるとうずくまって眠っているアヒルの姿があった。
「私、あのガーコと共同で暮らしておりまして。まぁあなた方の世界で言うルームシェアですかね。」
兎どの。兎どの。共に暮らすのは理解できるが水や餌は人間から与えられ掃除も自分でしているわけではないだろう。

「あぁ、はい。いえ私本当は自分で出来るんですけど、でもそれって兎じゃないでしょ?」
じゃないでしょ?と問われても・・・。まぁ見世物小屋行きですよねそうなれば。
前代未聞、生活兎現る!スポーツ新聞の一面全部使って堂々と報じられてもおかしくない。
「見世物小屋って。くっくっく。あなた私が兎だからって今の時代そんなもの存在していないことぐらい承知しておりますよ?動物園でしょ?」
僕は今日まで生きてきて初めて兎が笑うことを知ったし、何よりも兎もつっこみを入れてくるという事を学んだ。

「話を戻しますが、ガーコは普通のアヒルです。念話など出来ません。オスですがガーコです。」
はい。はい。頷きながら聞く。
「それでガーコにですね、一日一回でいいのでブラッシングを頼みたいのです。」
ブラッシング??
「えぇそうです。このブラシで。」
そう言うと兎はせっせと近くの土を掘ってブラシを持ち出してきた。
疑問が渦巻いているのはもうだいぶ前からの話しさが新たな疑問が仲間入りした。
何故?この兎に対してこの語句を用いるのは今更、野暮な話なのかもしれないが、そう思わずには居られない。
新たに仲間入りした疑問はその後にこう続ける。しかも三連続で。
何故、そのブラシングを?何故、そのブラシ指定で?そもそも何故、僕が?

「その三連続にこれからお答えしましょう。第一にブラッシングに対してですが、一日一回、丁寧に愛撫するかのように、ブラッシングをしないとガーコは体調を崩してしまうのです。続いて第二、このブラシはガーコが以前お世話になっていた飼育係りを兼ねていた用務員のおじいさんが愛用していたモノらしく、これでないと落ち着かないようなのです。
なんとも思い出深い一品なのでしょう。おじいさんを思い出しながらブラッシングをされることで今は亡き用務員さんの事を身近に感じることが出来るようなのです。それでガーコはメンタルバランスを整えているらしくって。でないと体調を崩すのです。
そして最後にですが、それはこの念話が通じたのがあなただったからです。」

はぁ。事情は飲み込んだわけだが、疑問は人間の欲望そのままに尽きることを知らない。
今までどうしてたの?

「今までは私がその役割を担っておりました。用務員さんがこの学校を去る際にその役割を私に一任してきたからです。
えぇ、今の私とあなたのように話が出来る間柄でした。わたし達。晩年の用務員さんはこの超常的現象を理解していたのかどうかそれは定かではありません。恐らく推察する上に彼の人にしてみればそんな事はどうでもよかったのでしょう。
ただ私と話ができる。その事実を愉しみまた幸福に感じている節さえ見受けられました。あの人の笑顔はそう物語っていたと、不肖ながらそう自惚れさせて頂きました。」

なんだか凄くいい話しですけど、今現在ここの飼育は誰が?

「えぇ、それはこの学校の子供たちがしてくれているのですが、何分、彼らは幼い。ついつい私どもの飼育を疎かにしがちです。信頼を置くにはまだ彼らには懸念してしまうのです。失礼な話ですが。」

はぁ。なるほど。
え、でも、その、ブラッシングは今後もあなたが続けたらいいじゃないですか。
と、思った直後に、兎に対して敬語を使ってしまったのはこの兎の人柄からなのか。
そう思ったがその事に兎は触れずに、
「えぇ。そうしたいのはやまやまなのですが、その、私用でですね、少しこの場を離れなければいけません。」

私用?!

「えぇ。まぁ私の正体についての話になるわけですが、実は私、ただの兎ではないのです。」

えぇ、それはもう十分存じ上げていますよ。

「はい。中秋の名月、その晩に里帰りをするのが私どもの仕来たりでして。月にちょっと帰るんです。」

月?!

「はい。月の兎なのです。私。そうしてかぐや様にこの惑星の現状を報告する、まぁ定例報告会みたいなものですかね。」

あの、、

「分かっておりますとも皆まで言わずとも。私達は月から派遣されこの惑星の現状を監視する役割を与えられているのです。
年々悪化し病んで行くこの惑星を放っておくことが出来ません。今やこの惑星の環境問題は宇宙全体で議題に取り上げられているのです。
あなた方はご存知ないでしょうけども、このまま行けば間違いなくこの惑星は滅んでしまう。それを食い止めるべく各惑星の代表者は頭を悩ましているのが現状です。強制的に武力を用いてあなた方に介入する案も出ましたが保留にされています。
あくまでもその案は如何ともしがたい事態になった時に適用される最終案らしく、それよりももっと平和的な解決策を見出そうとしています。
それ以前にまず慎重に試みないといけないのは我々の存在をどう伝えるべきか。この惑星以外の知的生命体の存在を未だ確認できていないあなた方への配慮の仕方。
チラリチラリと我々の片鱗を見せたりしていますが、あなた方の意見は一つにまとまらずに別れてしまっていますよね。
一気に全てさらけ出しても私どもは構わないのですがそうなると、あなた方はパニックに陥る。非常にデリケートな問題なので、少しずつでしか歩み寄ることのできない歯痒さが私どもにはあります。
本当はそんな悠長なこと言ってられないほどにこの惑星は危機的状況に陥っているのですが・・・。」

一気にそうまくし立てられ頭の整理がつかない。いやもう整理なんかどうでもいいや。

「そんな状況下に置かれているこの惑星に対し外部からだけではなく内部からも観察をして状況をより詳しく知っておこうと。そんな理由で一番この惑星に近い月から派遣された私どもですが、そうですねざっと数にしてこの地球上に数千万ほどはいると思います。なかなか切迫しているのですよ。この惑星は。」

お、お疲れ様です。兎惑星じゃないですか地球は。
少し冗談めかして言ってみたのだがどうやらこの兎、物事に集中するとその一点に拘ってしまい視野が狭まるタイプらしい。というわけで僕の冗談は聞き流されてしまった。

「えぇ、そんな理由でですね、一旦帰らなければいけないのです。ガーコと暮らし始めて数年が経ちます。中身は違いますが今この惑星で共に暮らす生物として、彼には友情を私は感じております。そんな彼を放ってどうして月に帰ることなどが出来ましょうか!」

興奮した兎は金網に前足を打ちつけた。ガシャンと誰も居ないグランドに音が響いたがすぐに消えた。
あの、、事情は詳しく知ることができました。それであの、兎さんはいつ頃お戻りに?

「私は一週間ほどで帰ってきます。その間この飼育小屋にはダミーの兎を用意しておきますのでご心配なく。それで、どうです?引き受けて下さいませんか?」

まあ一週間に一日一回アヒルを優しく愛撫するかのようにブラッシングする事なんて簡単な話なわけだが・・・・・・・・・。

「腑に落ちないでしょう。えぇそりゃもう腑に落ちないでしょう。しかし私にはもう時間がない。こんな事頼めるのはあなた以外には考えられないように思えます。どうか、どうか、何卒、よろしくお願い致します!」

そう言うと兎はペコリと頭を下げた。その仕草がどうにも愛らしく、つい、いいですよと返事してしまったのだった。


ブラッシングは夜中に忍び込んで行っていた。
最初ガーコはガーガーと騒ぎ立てたが手に持ったブラシを確認すると大人しくなった。
兎はブラシをそのまま土に埋めていたが汚れるといけないのでビニール袋に入れて埋めるようにした。
兎が居ない間持ち帰ってもよかったのだが、なんとなくガーコが不安になりそうなのでやめておいた。
ダミーの兎はあの兎と外見はまったく同じだったが話しかけても全く返事はしなかった。
このダミーの兎はどこからやって来てあの兎が戻ってきたらどこへ戻っていくのだろうか。
あの兎はきっちりと一週間後に帰ってきた。
「いやぁ、ありがとう御座いました。かぐや様も相変わらずお美しくて。あ、これお土産です。」
そう言って渡された和紙の中に包まれていたのは月見団子と餅だった。
「本当はつきたてを渡したかったのですが・・・。」
そう言う兎は本当に申し訳なさそうだった。

餅と団子はレンジで温めてから食べてみると柔らかさを取り戻し非常に美味しかった。
あれから度々僕はその飼育小屋へ遊びに行く事にしている。
特にこれと言って用件はないのだが、兎の話は常識を覆す話ばかりで面白く、また彼もこの惑星の生物と接触を持つことは大事なことだからいつでも来てくれと僕を快く受け入れてくれたのだった。
ちなみにブラシをビニール袋に入れて埋める案は以前、彼も考えたようだ。
だが袋を掘り返し取り出すことはできるのだが、袋の口を結ぶのに苦労するらしく途中で諦めたらしい。
この兎との交流は勿論誰にも話していない。
写真で見せられたかぐや様は令嬢のように麗しかったが最近はバナナダイエットにハマっているらしい。曰く、「これなら続けられそう!」どうせ続かないくせにと念話でかぐや様に聞かれないように周りに居た兎達は話していたらしい。
彼に一度名前を尋ねてみたがこの惑星の言葉では表現できない発音らしく、僕はそれ以来彼のことは、月兎と呼んでいる。そのままだが、それに対し彼に異論はないらしい。
なんかいいあだ名はないかな。と最近の僕はそんな事を考えている。


散文(批評随筆小説等) 「兎」 Copyright 菊尾 2008-09-21 08:44:21
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