海釣りの日
三州生桑

父と私は、海の底で蟹を捕まへようとしてゐた。蟹は絶好の釣り餌になるのだと、父は言ふ。釣りを楽しむためには、まづ蟹を獲らねばならない。小さな蟹が何匹も足元を這ってゐるが、触れることすらできない。逃げる時のすばしっこさと言ったらゴキブリ並みだ。当惑する私の耳をかすめて、細長い魚が泳いでゆく。

海底をカモメが一羽、のんびりと歩いてゐた。私は驚嘆する。よく息が続くものだ。父はカモメを捕まへると、水面に投げ上げてやった。カモメは白い海老を吐き出しながら、空へと帰って行く。蟹を早く捕まへなくては。
手のひら大の蟹が悠然と近づいて来る。左のはさみが異様に大きい。私は石を蟹に投げ付ける。蟹の甲羅は砕け、卵黄のやうな体液が海中に漂ふ・・・。私は釣り餌を手に、砂浜に上がる。濡れたジーンズが重い。

私の釣り竿を見知らぬ老人が組み立ててゐた。有り難迷惑だったが、竿を受け取り、礼を言っておく。老人は際限なく喋り始める。私は生返事をする。
見本を見せてやらう、と言って、老人は私の釣り竿を取り上げると、サッとひと振りする・・・。軽い錘しか付けてゐないのに、針は百メートル先まで飛んで行ってしまった。老人は得意さうに笑ひながら去り、私は釣り糸を手繰り寄せる・・・百メートル!

女が微笑みながら歩いて来て、高らかに言った。
「ポンジュース!」
手にオレンジジュースを持ってゐる。どうやら「ボンジュール」と掛けてゐるらしい。つまらない洒落だが、とにかく美人だった。
彼女の話しは面白かった。中国から来た留学生だと言ふ。私に気のある素振りを見せてゐたが、一刻も早く釣りがしたかったから、誘ひには乗らなかった。釣り糸の束を手に、私は彼女に別れを告げて立ち去る。

海岸に出る扉を開けると、男が一人立ちふさがってゐた。この世で最も忌み嫌ってゐる男だった。その醜い男の傍らには、さきほどの美人が立ってゐた。男は誇らしげに笑ふと彼女を抱き寄せ、これ見よがしにキスしようとする。彼女は顔をそむける。
女は金で買はれたのだらう。私は海岸へと走り出す。釣り竿と蟹を持って。






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自由詩 海釣りの日 Copyright 三州生桑 2008-09-16 20:20:38
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