純粋正義への架橋16
チャオ

再び、言葉へ思考を還そうと思う。

言葉の限界性と、想像性。それはその言葉のみにしか持ちえることはなく、また同時に各人それぞれに持ちえた、物語である。幾多のバリエーションと、それだけでしかない唯一性を持ったもの。それが言葉だと僕は考える。

はたして、それはどこへと続くのか。

すべての言葉は両義性を含んでいる。

すべての行為は両義性を含んでいる。

正義は悪を含み、悪は正義を含む。

その道程にこそ、唯一の論じられる可能性があり、その結果には誰一人としてr論ずることのできない神秘性がある。

感情という過程。言葉という結果。結果こそが事実であり、人々に表象される物語なのだ。だが、根源的な、その言葉に根ざそうと僕らが歴史を垣間見たとき、僕らはその断片によってのみしかそれを感じることはできないのだ。
つまり、歴史の中で生み落とされた天才たち、それだけしか僕らは見ることはできない。正義は悪を淘汰していくが、その悪は、常に正義性を帯びていなければいけない。でなければ、そこに淘汰される歴史の意味は存在しなくなる。

すべての言葉の両義性は歴史によってその善悪を決定させられる。
その彼岸で、悪も、善も、それらは混在しあい、いずれ、語りつくせぬ意味が髣髴と生まれている。
にもかかわらず、現実と名を打つこの世では、それらの両義性をはいたし、一元的な意味へと還元させなければいけない。。出なければ、それらの決定的な力は存在することが許されないのだ。

真理は、確かに混在したままの、そのあやふやで複雑な世界にあるのかもしれない。だが、そこには、人は人として存在する意味がない。そこには誰もが手足を広げられるだけのスペースがあり、誰もがいびきをかくだけのゆとりがある。
現実と名を打つこの世界で、正義を語るその覚悟はひとたびあくとののしられるその現実に存在する。
そしてそのとき、僕らは、その勇気をたたえながらも、完全に戦う姿勢を崩してはならないのだ。そうすることによって、正義は培われていく。

意味づけられた言葉は、その力を奮い、それを表象させる。がしかし、それは誰によってさえも等しく同じものはなく、ましてや永遠と続く物語を奏でるのだ。
記号という魔力の中で、人は対抗し、そして自分という人を構築していく。そのとき、僕らは、すべての者が天才でなくともいいと悟るのだ。僕らは人でさえあればいい。

人は人を超えてこそ人になる。

限界を払拭し、限界を作る。それが力そのものであるにもかかわらず、真理とは言い切れない。だが、その両義性を同時に言い表すことが可能ならば、僕はすべての物語を終結する力を持つことができるだろうb。


散文(批評随筆小説等) 純粋正義への架橋16 Copyright チャオ 2004-07-26 07:29:25
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