「評論」と「批評」
ボッコ

まれに評論というものを読む。
手元の辞書によると、評論とは「(専門の分野や社会の動向などについて一般読者を啓発するために)自分の意見を加えながら解説すること(したもの)」らしい(三省堂新明解国語辞典第5版)。

批評というものもある。「物事の良い点・悪い点などを取り上げて、そのものの価値を論じること。また、そのもの」だとか。


評論は「(一般読者を啓発するために)」するものだそうなので、何となく専門家が初心者に向かってするもののような気がする。
批評にはそういうことは書いていないから、専門家同士でするのが基本なんじゃないかという気がする。


○○評論家、という肩書きはよく聞くけれども、○○批評家、というのはあまり聞かない。素人だから詳しい人の話を聞きたいと思うし、だから職業として成り立つこともあるんだろう。解説者というのもテレビとかでは良く出てくるけれど、これも評論家と同じような人だと思う。素人向けを基本とするマスコミでは、必須の存在なのかもしれない。
専門家同士だと、それはお互い学びあえばいいわけで、批評家は評論家のようにはなりたたなそうな気がする。コンクールのような場になると、どうしても評価しなければならないから批評家は必須になる。けれども普段は、お互いの間でやりくりすればそれで足りてしまいそう。引退した専門家とか好事家以外には、あんまり需要はなさそうな感じがする。

評論と批評、評論家と批評家、同じ意味で使う人もいるだろうけれど、私の中では何となく区別されている。
言葉的にも、何となく、評論より「批評」の方が「キツい」イメージが私にはある。解説重視だと出来るだけ解説されるものの意を汲んであげることが必要な気がするけど、価値評価重視だと、意が汲み取れないのは作品の方が悪いという話にもなりそうだし。


評論家は仕事っぽいけれども、批評家は趣味っぽい、そんな感じだろうか。

まずとにかく批評家というのは何故か偉そうな感じがする。本人が自覚していなくても何か勝手にそういうオーラが出ている感じ。

法外な要求を出す消費者みたいなときもある。そんなむちゃくちゃ言うくらいなら一回自分でやってみてから言いなさいよ、という感じの時もある(解説者の方は何となく売り手・作り手の側の苦労もそれなりに紹介してくれるようなところがあるので、そういう感じを受けることは少ない)。
あと、批評にはべき論とか、歴史哲学みたいのが入ってくることが多い。なんだかよく分からないけれど、とにかく「新しい時代に合った新たな方法の確立を期待する」みたいな。基本的に理念論なので、具体的にどうすればよいかはまず教えてくれない。

だから、全体に、何か無責任な感じがする。言いたい放題言って、じゃ、あとは勝手に頑張って下さい、みたいに放り投げる、そんな雰囲気がある。
仕事だったらまずそんなことは許されないと思う。言ったら言っただけの責任が絶対に伴ってくる。この辺で、批評は仕事じゃなくて趣味っぽい感じがするのだと思う。


趣味人を語らせると大変だというのは多かれ少なかれよく見られる現象で、だから多分批評家も、自分の趣味を語りすぎる人として煙たがられることが多い。趣味は好き嫌いの一言で済ませる人から、本一冊書いて自分の趣味を論じる人まで様々なので、その辺は好き好きな筈なんだとは思うけど。
全体に、趣味人というのは「へぇ〜」と関心されるけれども、あんまり濃い語りに入られると困ってしまう、やっぱり適当に解説して、あとはそっとしておいてくれる、解説者とかの方が、素人フレンドリーな感じがする。
批評家の発言は聞くにせよ無視するにせよ、聞く側にもそれを判断するための専門性が求められる。濃い趣味を持つというのはお互いなかなか大変で贅沢なことなのだ。


散文(批評随筆小説等) 「評論」と「批評」 Copyright ボッコ 2004-07-24 22:27:33
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