詩の言葉と拘束具
ななひと

詩とは何か、と考えることは、無限に循環する出口のない問いであるから、しばらく措く。
では、いわゆる「詩の言葉」とはなにか、について考えてみよう。
もちろん、「詩」専用の言葉があるわけではないし、日常使われている言葉が「詩」の中で使われることは当たり前のようにある。先ほどの「詩」とは何か、という問いとともに、定義不能な解答の出ない問いと考えた方が妥当だろう。
では、こうした文を書くことはおろかなことなのだろうか。あるいはまた、では逆に、この文章は、なんの保証があって詩ではないと言い切れるのか。
それでもしつこくこの問題につきあうつもりならば、整然とした体系で分類ができるという発想をまず切り捨てなければならないだろう。第一、この文章は、一枚の横書きの用紙に書かれている。この場合、ここに書かれた字は、このままではいくつかの言語が果たしうる機能を(あくまでも一般的にだが)発揮する条件を失っているといえる。例えば、ここに、「窓を開けなさい」と書いたとして、この文を読んだ人は直ちに窓を開けに走るだろうか。よほどの変人でない限り、そうすることはないにちがいない。ではなぜ、ここで書いた「窓を開けなさい」は、人間にその行動を起こさせる能力を持っていないのか。そのことはもちろん、「窓を開けなさい」をいくら分析してもわかる問題ではない。蓋然的にいえば、ここで言葉が、その行為遂行性(人に行動を起こさせる能力)を発揮できないのは、この文章(紙片)が、そうした指示を伝える紙であるという属性を失っているからである。その代わりに、「窓を開けなさい」という言葉は、読む人に、想像の上で窓を開ける様子を思い浮かべさせる機能を持つだろう。当たり前のことにずいぶん紙片をつかってしまったが、一般的に、(もちろん詩にもいろいろあるだろうが)詩の言葉はどうだろうか。詩で、「太陽が照っている」と言えば、空が曇っていようが、そこが屋内であろうが、観客は想像上の太陽を俳優の上にあると思いこもうとするだろう。この場合、言葉は(指示対象性)を失っていると言えるだろう。これもなんのことはない、当たり前のことである。こうした、言語のもつ、行為遂行性、指示対象性を失わせるのは、その言葉が属している領域が、そういうものとして定義づけられているということを、私たち自身が、まったく当たり前のことだと前提しているから起こることだといえる。
しかし、それならば、我々が、何らかの原因で、こうした約束事をすっかり忘れてしまったとしたら、どういうことがおこるだろうか。
窓を開けに行くのはもちろん、それよりまっさきに、人々は「どういうことがおこるだろうか。」という問いかけを、自分に向けて向けられた問いであると考え、答えなければならないという義務をおってしまったかのように思いこむことだろう。
この文章の最初に戻ってみる。

詩の言葉について
この言葉はどのように理解されることになるだろうか。一見のところ、我々に命令しているわけではないから、これによって何かのアクションを起こすことはないかもしれない。しかし前提をどんどんはずしていこう。「詩」とは一体何なのだろうか。私たちは何を目標としていいのか途方に暮れ、しまいには、「詩」という字自体を手で握ろうと試みるかもしれない。「言葉」とは「詩」のどこかに隠されているはずだ。。そう思って「詩」という字は解剖されることになるだろう。
詩とは何か、この問いに対しては楽々と、捕獲した「詩」を取り出してみせるかもしれない。これを延々と繰り返すことは、我々の言語が無前提に内面化していることから身を引きはがすよい練習になるかもしれない。

さて、ある定義された「紙」が、その中の言葉の行為遂行性、指示対象性を無効にする機能を担っていると考えた場合、われわれが一般に考えている「詩」はどのような暗黙の前提を隠しているのだろうか。
「詩」の朗読の現場に立っていたとして、朗読者が「あなたを愛している」と言ったとき、それを自分に対して向けられた言葉だと受け取る人はいないだろう。もちろん「詩」をめぐるパフォーマンスはさまざまであるから、そうした前提を利用する「詩」表現があることは否定できない。しかし重要なことは、「詩」という枠は、何かしら、私たちが当然と思っている、様々な言語の機能を停止することによってなりたっているという事実である。「ここでは雨が降っていて」と言われて傘を取り出す観客はいない。
他にもいろいろな前提がある。「詩」は日常使う意味からは全く思いもよらない、何か「詩」的な意味を、ごく普通の単語から引き出すことができるという思いこみ。詩は、何らかのリズム(伝統的リズムとは限らないし、リズムであることを拒否することで逆にリズムになってしまっている場合もあろう)をもっているはずだという思いこみ。だれか特性の人に向けられた、実用的なメッセージ、指示ではなく、なんら観客たちに行動することを要請しない、誰に向けられた声でもないはずだというおもいこみ。
もちろんこうした例は、この文を書いている私の思いこみであって、そういった概念をひっくりがえすことで詩表現を広げようとしている人が既にいるかどうかはしらない。

こうした検討でわかることは二つある。
一つは、言語は、純粋に記号として独立して存在する物ではなく、それがおかれた環境の約束事に従っている(と我々が思いこんでいる)ということ
二つめは、こうした言語と環境による多様な関係は、簡単に破ることのできるもので、物理的論理的な不可能性にもとずいているのではないということである。

いわゆる「詩」を読むことには、我々が全く気づかない形で、何の拘束具も必要とせずに我々を縛り付ける権力が隠されているのである。


散文(批評随筆小説等) 詩の言葉と拘束具 Copyright ななひと 2004-07-22 02:13:34
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