Chanson d'automne
Paul Verlaine
Les sanglots longs
Des violons
De l'automne
Blessent mon coeur
D'une langueur
Monotone.
Tout suffocant
Et blême, quand
Sonne l'heure,
Je me souviens
Des jours anciens
Et je pleure
Et je m'en vais
Au vent mauvais
Qui m'emporte
Deçà, delà,
Pareil à la
Feuille morte.
落葉
ポ−ル・ヴェルレーヌ(上田敏 訳)
秋の日の
ヰ゛オロンの
ためいきの
身にしみて
うら悲し。
鐘のおとに
胸ふたぎ
色かへて
涙ぐむ
過ぎし日の
おもひでや。
げにわれは
うらぶれて
ここかしこ
さだめなく
とび散らふ
落葉かな。
※
明治29年(1896)、ヴェルレーヌがパリで貧困のうちに死んだ。
それをいち早く「帝国文学」誌上に報じたのが、東大英文科に在籍中だった上田敏である。彼の象徴詩人に関する最初の記事として知られている。明治37年(1904)にヴェルレハーンの「鷺の歌」をはじめて「象徴詩」として紹介。翌年、当時のヨーロッパの新しい詩人たちの作品を翻訳紹介した「海潮音」によって、象徴主義の旗手となる。日本の新体詩の隆盛が、明治30年(1897)の「若菜集」(島崎藤村)、明治32年(1899)の「天地有情」(土井晩翠)をもって天井を打った観があるだけに、象徴主義の影響は新体詩に最後のはなやぎをもたらしたように見える。
※
では、象徴主義とは何か。「海潮音」の序文にも、
「象徴の用は、これが助を藉(か)りて詩人の観想に類似したる一の心状を読者に与ふるに在りて、必らずしも同一の概念を伝へむと勉(つと)むるに非ず。されば静に象徴詩を味ふ者は、自己の感興に応じて、詩人も未だ説き及ぼさざる言語道断の妙趣を翫賞(がんしよう)し得可し。故に一篇の詩に対する解釈は人各或は見を異にすべく、要は只類似の心状を喚起するに在りとす」
と記されているが、わかりやすく理解するために、お手軽にネットで検索すると
「 象徴主義とは、連想と記憶を媒介とする様々な性質の普遍的な照応を可能にする世界を築くこと」
(
http://www.geocities.co.jp/HollywoodKouen/5479/symbolism/symbolism.html)
と出ていて、それにつづいて
「従ってあいまいで、時には反対の感情すら共存し、多価多義を内に持つ言語であり、同音のもつ多くの意味を自由に解釈することを許す。すべての解釈は、どれも同じく一つの真実であるから、その一つを自分の気分や、 気質に応じて選べる。作品の持つ暗示の力が、生命の目覚めと自然の 奥深さを 教える。それは現ならず美しく、暗示的で束の間にうつろい、たえず変化し、 同じ形のままでいることはない」
とある。これを煎じ詰めていうと、象徴主義による詩とは言葉を「意味」を通してではなく、いきなり感性に訴えようとする、シンボルとしての言語芸術ということになる。19世紀後半、それまでのロマン主義や自然主義に反発したフランスの若い詩人たちは、筋道の立った論理的な叙述を忌避して、イメージや音楽的表現によって感覚的で暗示的な詩をかいたのである。
こんにちの現代詩の始祖となったこの象徴主義は、詩に豊かなバリエーションを約束した反面、詩を読み慣れぬ大衆に対しては難解性という宿題を残した。
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上田敏(1874〜1916)は、祖父、父、叔母がヨーロッパやアメリカに留学の経験をもつ家系に生まれる。1897年に東大英文科を卒業。大学院では、小泉八雲に師事、1905年に東大講師となる。欧米に留学後、1907年に京大教授。海外の文芸を広く紹介し、とくに象徴主義の啓蒙は、蒲原有明や北原白秋など、その後の日本の詩の歴史に大きな影響を与えた。大正5年(1916)、尿毒症により死亡。41歳であった。
※
例によって、彼も「学校の先生」であった。いままで見てきた詩人たちは、ほとんど「先生」出身であり、まるで先生でしかも外国語の修得者でなければ、詩人にあらず、といったありさまだが、これもまた明治という啓蒙の時代の、避けられぬ風潮であったのであろう。
●海潮音→
http://www.aozora.gr.jp/cards/000235/files/2259_2141.html