「水槽」
ソティロ

「水槽」




1.
とりあえずそこに
水槽(けっこう大きい)
を買ってきて置いてみた
魚はいない
でも「水槽」っていうぐらいなので
少なくとも水は必要だろうと思い
満杯にした
ガラスを割ると困るので
バケツを使って何度か往復した
それから眺めた




2.
眺めたら
けっこう満足したけど
まだ何か足りない気がしたので
手を入れてみた
ちべたい
手首まで入れて
また眺めた
屈折率の関係で
いつもと違って見える手を
しばらくおもしろく眺めた




3.
飽きたので
手をタオルで拭いて
椅子に腰掛けてパソコンを点けた
文字をタイプしながら
時折右横を見やる
とそこに水槽があって
しかも水がなみなみと入っていたので
気分が良かった
でも水の量が多すぎやしないかと
心配になった




4.
気になって仕方がないので
空のペットボトルを水槽に沈めて
余分の水をあつめることにした
まだ冷たい
水が入る分空気が排出されるので
気泡と共に
こぽぽぽぽ
と音がする
その音が気に入った
コカ・コーラの1.5Lのペットボトルなので
大体それだけの水位が下がったことになる
ちょうど良い気がした




5.
コンピュータの動く音がしている
台所の方からはときどき
冷蔵庫が冷える音がして
水槽は静かだった
あまりにしん、としているので
ときどき大丈夫かと思い確かめた
水槽はそこにある
「そこにある」ということについての
哲学がはじまりそうだったが
そんな気分でもなかったので
そのまま放っておいた
水も凪いでいた
少なくとも
水槽を見ると少し落ち着いた




6.
水槽も水も
無色透明だったために
背景が透けて見えた
今度はそのことがすごく気にかかる
そこでB5のコピー用紙を何枚か
奥側に貼り付けた
しかしそれはそれでしっくりこないものだった
水槽と水を見たいのだけれど
これではB5用紙が見えてしまう
より不自然になるので剥がした
悩んだ結果なかに何か入れることにした




7.
しばらくして選んだのは
紫色のパワー・ストーン
以前女の子と買ったものだけれども
エピソードは関係なくて
ただ水槽にも水にもそのものにも
影響がなさそうなので選んだ
イシというのは割合に安定した物質なのだ
ただ落とし入れたときに
ぽちゃん と音をたてて
水面にわずかに飛沫があがり
波紋が広がった
年輪みたいに




8.
それはさっきまでの
静かな水槽とは大違いだった
でもぽちゃん という音も、水面の揺れも
とても心地よくて気に入った
空気中と比べると明らかに遅い速度で
ゆるゆる落下するイシもよかった
これが浮力というものです
と誰かに説明した
がそこには誰も居なかった
今の現象を再現しようと思ったけど
それには水に手を入れて
イシをすくわねばならず
水が大変揺れるのを想像して
やめた




9.
でも欲求には逆らえなかったので
別のものを入れることにした
次に選んだのは音叉だった
音叉なら仲間に入れていいかもしれない
それにどんな影響を及ぼしてくれるのか
興味があったからだ
もしかしたらすべてが
台無しになるかもしれなかったけど
好奇心のために止まれそうはなかった
Aの音は赤を生むイメージ
林檎の赤




10.
指先で音叉を垂直に持って
静かに離した
他のちからが加わらないように
水面を破って波紋が起こる
抵抗のないかたちで浸入した音叉は
思っていたよりは速いスピードで
底へぶつかり
りーん とAの音を響かせる
それが水いっぱいに拡がって
豊かな音色になる
波紋が治まるにつれ
ちいさくなって消える
音叉は横たわったままだ




11.
そんな期待をして実行に移した
実際のところどんな効果が現れたのか
そしてどんな感覚を起こさせたかは
ひみつ にしておく
これは各々が試すといい
それぞれの方法で
期待と結果は
同軸上にあるものではないから
ただ、終わりの終わりには
水槽と水とイシと音叉が
動かずに残った




12.
水槽はすっかり満足のいくかたちに
完成したように思えたけれど
今度はそれが恐ろしくなってきた
水槽とその内部に含まれるものが
距離をもち
すなわち関係性を築き
そして不動だった
はたして水槽は世界になったが
静寂は存在のなかにうまれるものです
水槽はもう慰めや心配の種ではなく
むしろ脅威としてそこにあった




13.
そのことで大変取り乱して
絶望そのものである水槽を
バールで粉々に砕いてしまおうと思ったけど
わずかに残っていた理性と
穏やかさの記憶がとどまらせた
他の方法で克服できないものかと思い
(それはごまかしだとしてもそのときは構わなかった)
部屋の中をうろうろしていた
そうするしかなかったのだと思う
ときどき恐る恐る水槽を見やっては
恐怖はふくらみ
つまり近づいていることをひしひしと感じた




14.
クローゼットに隠れて
すべてを投げ出そうという
ばかな考えに囚われかけたとき
運良く閃きがうまれた
水彩絵の具を探し出して
もとの場所へ戻った
皿にビリジアンと
あお、
それから白をわずかにあけて
たっぷりの水で混ぜ合わせた
最後のチャンスだった




15.
皿を水槽に浸し
筆で攪拌した
色はじわじわと広がり
やがて行き渡った
礼を欠いた乱暴な手順だったけれど
とにかくそれは成功を収めた
濁し汚すことが
唯一の逃げ道だったに違いない
水槽が青く、青くなり
それは確かに欠陥だったけれども
その色をとても好きになれたし
うまくやり遂げた自信があった
再び水槽は戻ってきた




16.
透明な青の不完全な世界、を
望むかたちで手に入れ、あいした
けれどついさっきの行程が
脳裏に焼きついて離れない
青が侵してゆくさまは
つまり快楽だった
のどがからからに渇いて
汗がにじみ出てきた
今かんがえているおそろしいこと
それを行えば、現してしまっては
二度と戻れなくなって
越えてしまうだろうことは
充分に、そして正しいかたちで
知っていたと思う
でも選択の余地すらなかった




17.
そして選んだのは黒インクだった
手は震えていた
そのためにキャップをあけたときに
数滴が水槽へ零れて
水面から鮮やかに拡がってやがて消えた
まるで気体のようだった
気体のよう
悦びがはしり、遠近感を失っていった
黒は
次元すら飲み込むちからを具えていた
壜を傾け黒い線を水へ注いだ
黒いけむりがもうもう と立ち込めて
すべてを奪っていった




18.
それはたぶん
わずかに残って育った
わだかまりみたいなもの
に似せる必要があったからだと思う
少なくとも今まで満たされることのなかった
部分が非常な満足を得たのは確かで
それが刹那であることもやはり知っていた
時がたって
黒い水は流され
汚れた水槽と静物は洗浄された
やり直せるものごとはやりなおせばいい
水槽は
今は今のかたちで部屋の一部になり
カーテンを開ければ光を屈折させ
ときどき床や壁や天井にそれを示した













自由詩 「水槽」 Copyright ソティロ 2008-05-30 23:41:25
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