わからないことだらけ.
ふるる

母が心を病んでいると医師に言われてからはや5年が過ぎようとしています。
その1年ほど前から軽うつと診断されて、薬を飲んでいたのですが、どうもこれは「アダルトチルドレン」とか「中年危機」の症状が強いと。(「アダルトチルドレン」は病気でも病名でもなく、それに気づいた本人が自分のことを言う名称ですが)

祖父が吐血して入院したのが原因で、すごくひどくなったのですが、その時、祖母がとても面倒みれないというので、私が母を預かったのですが、何と言うかあれは・・・・真っ暗なトンネルを這いずり回っているような毎日でした。
「こんな自分はダメだ」「死んだ方がいいんだ」「全てがダメだ」「私のせいでうちに泥棒が入った」「銀行のお金が下ろせないかもしれない」等のことを、いくら「そうじゃない、皆いいところもダメなところもあるんだよ」「いるだけでいいんだよ」「死んだら嫌だよ」等を繰り返しても、毎日毎日恐ろしい呪文のように、ことあるごとに繰り返すわけです。
こっちは子供の卒園、春休み、その後入学式もあり、それどこじゃねえよという感じでしたが、話を聞かないとまた「どうせ私なんか」とか始まるので聞く。聞くと同じような否定の言葉のオンパレードで。今でこそ普通に書いたり話せたりしますが、当時は何だかこっちの方がおかしいのかな?母が言うように、この世は全てお先真っ暗なのかな?夜中に手首切ってたらどうしよう?(と思い飛び起きてみたり)いっそ一緒に死んであげたらいいのかな?などと危ない事も思いつめるようになったりもして。怖いので、夜帰ってきたダンナに話をして、自分がまだ普通(世間的に見たら)ということを確認しないとダメな感じで。洗脳ってああやるんだなあと思ったりしました。
あまりにもおかしなことを確信に満ちて言われ続けると、それを否定するのに疲れて、しまいにはそうかなーなんて思ってきてしまいます。
その時に、自分の正気を保つために毎日必死になって色んな心の病についてのサイトを見たり読んだり本屋で読んだりしていたのですが。
(ちなみに病院へは本人がめちゃくちゃ行きたがらないので、行けませんでした)
それで分かったのは、「わからないことだらけ」ということ。

河合隼雄の「こころの処方箋」という本の最初に、「人の心など分かるはずがない」とありました。それ以前は、フロイトやユングのことについて書かれたものなど、興味半分で読んで、「人の心は分析で分かるし、治療もできるんだ」と思っていました。
けど、違うんだ。
長く心理療法をしている人でさえ、「人の心など分かるはずがない」「分からないというところから始めなければならない」と言っています。
読んだ時は、お医者さんに「治るか治らないか全然分かりません」と言われたのと同じように感じました。
希望ゼロ。(かもしれない)
そう思ってしばらく泣いた後、思いました。希望ゼロ(かもしれない)でもやるんだと。
人の心について、正しい解答というのはない。ないなりに、なんとかならしならしやっていくんだ。
今まで自分はわりと「正しい答え」「間違った答え」というのが必ずあると信じて生きていたけれど、ほんとうに「どっちかわかんない」「どうすればいいのかわかんない」「もしかしてこうすればいいかもしれないけど、結果見ないとわかんない」というものが存在していて、それを受け入れて生きていかなきゃならない時があるんだと。
そういう不安で曖昧なものがあって、それと供に生きる覚悟を決めなきゃいけない。
誰にも答えが分からないことがあって、数学者の悪夢ってやつによく似てる(絶対に証明できない問題があることがすでに証明されて分かっているけど、自分が取り組んでいる数式がそれかどうかは分からない、何十年もかけて、自分が苦労していた数式は証明できないということが分かってしまうかもしれない)
けど、やるしかない。
この人は私を生んだ母親で、親子の縁は切れないし、やっぱり大切な人だ。(と、思えるまでには憎しみや怒りや悲しみや絶望や自責の念、受けた言葉の暴力をどうしても許せない、など色んな感情を経なければならなかったけれど)
私の家族は私を必要として、生活というのはゴールなんかなくてご飯作ったり掃除したりの細かいことでちびちびと作られていく。
「正しい答え」に向かって突き進むんじゃなく、「答えはない」に向かってちびちび進む、あるいは進んでない、足踏みしてるだけかもしれない、後ろ向きかもしれないし、ワープし続けているかもしれない。

とにかく、この世界、私が認識して今現在生きているこの世界というのは、どうやらそういうことになってるらしい。
問題と答えというテスト方式に、すっかり慣らされてきたけど、この世はもっと複雑怪奇で、なのにこの目は前しか見えないようについていて、複雑さ、分からないこと、分からないままで生きることを、一見分かっている風にきれいに整理してしまう「言葉」を持ちながら、なんか矛盾しながら私は(私たちは)生きていくんだ。

余談ですが、そんな時、詩は私を救ったのか、と言われたら、「はい」と言います。
詩の中にある風、それが吹く静かな場所、というのが私の中にあって、そこは揺るぎがない。
あの一遍の詩、ひとつの歌を思い出せば、いつでもそこにいける。
例えば子供の時、喘息で苦しくて眠ることも横になることもできない時、私の心はそこに飛んでいた。
肉体は苦しくても、苦しみに引きずられて心まで苦しめることのないように、心は逃がしていた。
その場所が、詩の中にはある。詩の中にしかない。(と思っている)
言葉は何かをきっちりさせてしまって、それがよくない時もあるけど、いい時もある。
言葉がなければ、あの場所は私の中になかった。

私の詩ではそこまでの力はないんだけど・・・・。


散文(批評随筆小説等) わからないことだらけ. Copyright ふるる 2008-05-23 23:10:15
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