けれどももしかしたら砂浜のことを忘れているのかもしれない
ホロウ・シカエルボク


足元の砂のことは気にしないで、ゆっくりと時間をかけてここへ来て、まるでふたりのあいだにとてつもなく手強いドラゴンがいるみたいなシチュエーションで、この短い距離をあたたかな緊張で満たして欲しい、時刻は夕暮れ、雨の予報のせいなのか、釈然としない空模様で…語り合うにはいまひとつの灰色だけれど
足元の砂のことは気にしないで、どこか他のところから降ってきたのに違いないから―だって今日は砂浜のほうには出かけていないもの、そんなものが靴下に混ざったりすることなんてありえない、ゆるやかな態度がすべてをニュートラルに戻せることをどうか忘れないで
音楽は流れ続けているけど、何を歌っているかなんて気にしたりしてはそこからいろいろなものがこぼれ落ちるから、空中をただよう蜘蛛の糸のようになんとなく見つめるだけにして―真剣さについて少し簡単に考えすぎているでしょう、そんなことはないと言ってもそんなことはあなたが決めることじゃない、足元の砂のことをいつまでも気にしていたりはしないで、本当にどうしてここに落ちているのかまったく見当がつかないのだから…今日は砂浜には行っていない…砂浜になんて一歩も踏み入れたりなどしていない、いつか話したことなのかどうかもう覚えてないのだけど、ときどき真っ白になってしまうことなんてあれは遠い昔のお話、いまはデジタル時計のカウントと同じくらい正確に把握している―雨の音が聞こえた?予報ではまだずいぶん後のことのように言っていたけど…早くなったり遅くなったりすることなんてそんなに珍しいことじゃないから―緊張感が判らないのならコーヒーでも入れましょう、洒落っ気があるのならサイフォンの方を選んで
雨の音について考え込んだことがある?世界に落ちる最初の一粒が弾ける音を聞くのはいったいどういう種類の人なのかって…ミルクを少しだけ入れて……それがいつの間に落ちてくるのかということについて考え始めると時間が溶けていくような気がする、最初の一粒なんてきっと誰にも耳にされることなく弾けていくのだ…雨の音とサイフォンの音が奇妙なシンクロを始める、シンクロは不思議だ、なにか目にとまらないものたちがかすかな和音の中でゆっくりとかたちを変える…その動作をどことなく感じているみたいな気分になる、じっとしてそれを聞いていると雨がコーヒーを作っているのだと…少しずつ漂ってくる豆の香りは世界の外からくるのだと、そんな気がして…ミルクを少しだけ入れてってもう言った?洗っているマグカップはいくつある…?次第に雨足は強くなる、アフリカのパーカッションが数百と鳴っているみたいな―響き、エコー
マグカップに口をつけると、濡れた紙のように蒸気が張りつく、ミルクが溶けて…コーヒーは新しい匂いになる、匂いが変わるだけで…新しい飲み物になるのだ、呼び名はそのままで…飲むのはもう少しよそうと思う、せめてミルクの渦がゆっくりと茶色に沈んでいくまで…
雨は降っている?雨はまだ降っている…?さっきまで強い音がしていた、あれは確かにここで鳴っていたはず―気まぐれさが空で踊るような雨なのかもしれないゆっくりと、時間をかけて、あたたかな緊張を持って―最初のひとくちを始める、ピアノ協奏曲の最初のタッチのような感覚が下りていく―それは食道を伝い―まるで身体の中でコーヒービーンズのマーキングが行われているみたい…母なる大地の身に私は身体を捧げる、雨の音がまた聞こえだす、よかった、あれはずっと昔のことだもの…雨の音などに神経質になる必要なんてどこにもないのだ
コーヒーを飲みながら雨の音を聞いている、役目を終えたサイフォンが安堵の息をつく…








かみなりのない雨は好き




自由詩 けれどももしかしたら砂浜のことを忘れているのかもしれない Copyright ホロウ・シカエルボク 2008-04-07 23:01:36
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