タイトルに「あなた」なんて使って気恥ずかしいのですが、
なんかそういう気分なので(笑)。
さて。
蘭の会(
http://www.orchidclub.net/)の「ふみばこ」というコーナーに
谷川俊太郎さんからのお手紙があります。
(
http://otegami.orchidclub.net/?eid=82949)
俺はこの文章、大好きなんですよね。
特に、「詩は不実な恋人である」というくだり。
長年付き合ってきた身としては、思い当たることがごろごろあります。
深く知れば知るほどイヤになるんだけど、でも離れられない(笑)。
詩を書き始めるきっかけは、おそらくみんな似ていると思っています。
自分の気持ちを吐き出したりコントロールするために。
「私がここにいる」ことを、誰かに知らせたいために。
詩とのお付き合いは、まず、そこから始まるのでしょう。
けれどもそこは、詩の入り口ではありません。これは断言します。
詩はそこで待ってくれているのではありません。
入沢康夫という、戦後詩に大きな影響を与えた詩人がいるのですが、
彼の有名な言葉に「詩は表現ではない」というのがあります。
実はこの言葉、概念としてはとても難しく一朝一夕に理解できるものではないのですが、
それでも、「表現とは何だろう」「表現するということにどのような意味があるのだろう」
そんなふうにぼんやりと考えていると、この言葉のしっぽくらいは掴めたりします。
詩という不実な恋人が、少しだけ振り向いてくれるような気がします。
「何のために詩を書くのか」を、いつも自問自答してください。
答えはなんだっていいです。そしてその答えを疑ってください。
自問自答することと、その答えを疑うこと、この2つが大切です。
この2つの先に不実な恋人が待っています。詩の入り口はそこにあります。
そして詩は、自分自身をアピールする人にではなく、
詩のことを考えてくれる人に振り向きます。
さらに、どんなに長い付き合いでも、入り口を忘れたとたんに、離れていっちゃいます。
詩という不実な恋人と付き合うには、
詩を書き続けようとする意志よりもむしろ、
日々の生活の中で、自分の吐息ではなく詩の吐息を感じ続けること、
そのことが、大切なような気がします。
「詩は表現ではない」という言葉も、
この不実な恋人との付き合い方を示したものだと、
勝手に思ってたりします。
忙しくて詩がなかなか書けない人もいると思います。
でも、本当はそんなこと関係ないんですよね。
書けなくたって、感じることはできる。
むしろ書くことよりも感じることのほうが大切。
詩の入り口はどこにでもあります。
どこでも詩の入り口になり、
そしてその入り口はあなたにとって唯一のものです。
詩を恋人として選んだのなら、まず、
この不実な恋人の待つ入り口を見つけましょう。
そして、入ったとたんにわかる、詩の領域の広さと深さに驚きましょう。
この恋人の不実さを痛感するのは、その後です(笑)。