虚偽と忘却のエピソード
atsuchan69

 天空がようやく白みはじめた夜の終わりに、緩やかな砂丘を白いターバンを巻いた少年がただひとり美しい装飾の柩を背中にのせたアジア象をつれて歩いている。沢山の花たちで飾られた柩の正体はけして定かではないが、おそらく身分の高い人のものであることが柩を包んだ布地の飾りから見てとれる。あえて疑えば、象をひく少年の顔は、けして笑ってなどいなかった。それはおよそ子供らしさの感じられない、まるで生きることをやめたハックルベリ・フィンみたいな、暗い事実をうけとめた酷く大人びた灰色の顔だった。あるいは、その理由が柩のなかの人への特別な想いによるものなのか‥‥ということさえ、わたしには皆目わからない。すると海と砂浜に、焼焦げた車輪がひとつ、そしてまたひとつ落ちた。たちまち、水煙のあがる上空を低く翼を燃やした大型旅客機が旋回し、やがて機首をあげて垂直に傾くと、見るみるうちに推進力を奪われ、大勢の乗客をのせた胴体部は、ちょうどジェットコースターの落下する直前を想わせる逆向きの待機状態で地上からわずかな宙に浮かんでいるのが判る。火を噴き、あがきつづける機体は、もはや墜ちるより他ない姿勢のまま、右の主翼で二度の爆発をおこし、さらに黒い煙をまぜた妖しく華やかなオレンジの獰猛な焔とともに炎上した。
 ベッドを揺らす轟音と地響きとともに、わたしは甲高い女の悲鳴を聴いた‥‥。

 その朝。わたしは出勤まえの慌ただしさに逆らって、むしろ明るいリビングの窓辺でソファに座ると、深煎りの素晴らしく苦いコーヒーを啜り、今にも時間切れとなりそうな激しい恐怖と苛立ちとを、半ば力ずくで捻じ伏せては叫びたくなる想いをやっと鎮めた。
 「ドルの価値、まだ下がるのかな」
 「だから少しだけ、金貨を買っておいたの」
 そして新聞の記事をとばし読みしながら、サイドテーブルに妻が運んだ自家製オイルサーディーンとホウレン草のソテー 、目玉焼きと厚切りのトーストを一枚食べ、煙草を吸った。
 ヤクルトを飲み、やがて妻に見送られて今日もゴミの袋を両手に持った。

 いつものようにゴミを捨てた時、ふと気がつくと、生活道路と一般都道の交わる信号機周辺がやたら賑やかだった。それから駅へ向かって歩き出したが、ブルーシートで覆われた家の付近に巨大な四角ばった肉の塊りが幾つもならべ置かれているのを目撃した。崩れた塀からは、台風の後のようなメチャメチャになった庭を覗かせている。
 立入禁止のロープを張られた、「結界」のなかの塊りはどれも緑がかった青色をしており、そこに黒みをおびた縦縞を上下に幾本も走らせて、それはじっさい四角ばってはいるものの、まるで巨大な西瓜みたいだった。しかしまた、ぶよぶよした皮の表面には沢山の萎んだ窪みがあり、そこから伸びた白い糸状の触覚器らしきものも無数にあった。
 青の塊りは、まったく静止しているようにも見えたが、よく見ると触覚器らしきものが外気にもがくように、細かくさかんに蠢いているのがわかった。この得体の知れぬものが、果たして精巧な作り物だとはとても思えない。
 わたしが目撃したときには、すでに野次馬の人だかりと交通機動隊、および自衛隊員らが出動し、第一種低層住宅街の上品ぶった空を激しく、けたたましい騒音が朝を引き裂くように、陸上自衛隊汎用ヘリコプター(UH―1J)が旋回飛行をくり返していた。

 「危険です、近寄らないでください」
 と訴える警官を見下ろし、クレーンブームで持ち上げられたバケットの中の男が、
 「そこで卵を囲んだ自衛隊の人たち、かなり乱暴な仕方で野次馬を散らす!」
 と、メガホンで叫ぶ。「はい、そのあとにすぐ捕獲網の準備、および降下してくるヘリコプターを3カメが追う。7カメ、ちょっと押し倒される野次馬のカットたのむけどいい? 4カメ、俯瞰第2デッキ。中抜きして庭のエンカイに注意!」
 なんだ。映画の撮影かよと、散りはじめた野次馬。
 わたしも会社へ向かう途中だ。今日は昼すぎからとても大事な商談がある。しかしながら交通機動隊、そして警察官らはどうみても本物らしく、若者ひとりと、わたし位の年齢の男がひとり、警視庁のパトロールカーにむりやり乗せられていた。
 ――どうもなんとなく、妙な空気を感じないわけにはいかない。

 出社後。散らかった書類、そして急須と茶碗を傍らに、まだ起動したばかりのノートパソコンでヤフーの記事を検索した。
 ――あれは、本当に映画の撮影だったのだろうか? 
 該当するような記事はどこにも見あたらない。そこで住所から検索してみるが、これもダメ。わたしが見た「事実」は、どうも全くひっかからなかった。
 いや、待てよ。ああ、Sさんがいたんだ。彼女の実家は、わたしの家と道路を挟んで向かい側の区画にある。彼女なら、わたし同様にアレを見たのではないだろうか。
 さっそく彼女の課へ連絡した。あいにくと今日は風邪で休みだという。
 ふと気になって、妻にも電話をしてみた。
 繋がらない‥‥
 そこでわたしは、自分の携帯で友人のEに電話をした。彼は、大手広告代理店に勤めている。彼なら、テレビ・映画の撮影に関して、少なくともわたしよりは詳しいだろうし、その筋の情報を集めるのは容易いはずだ。
 すると彼の答えはこうだった。――
 「どうかな? 撮影機材のレンタル会社とかから、その気になれば調べられるかも知れないけどさ。俺だって超多忙なわけだし、すまないが堪忍してよ」
 「でも怪獣物だとしたら、けっこう絞られてくるだろ」
 「じゃあ、Xプロダクションにダチがいるから、あとでそいつに聞いてはみるがね」

 そこでわたしは、縋(すが)る思いで雑誌社の友人Yに電話をした。
 彼は雪男やネッシーだの、いわゆる未知の生物と呼ばれるものに詳しい。
 「知っているよ」と、彼は言った。「それはフルフルの卵だ」
 「え?」
 「とんでもない生き物さ、というより怪獣と呼ぶべきかもしれない」
 「おい。そんなもん、新聞や週刊誌に載っていないじゃないか。なんでお前だけがそんな凄いことを知っているんだ」
 「つまり、報道規制ってやつさ。たぶん、周辺住民は例の『呼出し』をくらっている可能性がある」
 「――呼出しだって?」
 「保健所でワクチンと称して『記憶忘却剤』を注射し、その後『特殊なことば』による五分程度の洗脳が行なわれる」
 「ということは、わたしの妻もか?」
 「心配はいらない。洗脳は、今朝の出来事を虚偽の記憶とすりかえるだけだ」
 「わたしは、どうなる?」
 「たぶん、何もない。君がよほど社会的に大きな影響力を持たないかぎりは。ただし、それに関する発言、とくにネット上の書き込み等は一切しないほうがいい。周辺住民はとうぶん、緩いながらも政府公認機関の監視下にあるからね」
 「それ。お前の話じゃなかったら、とても信じられない内容だな」
 「もっと知りたいかい? ――今から会えるなら詳しく教えてあげられるけど」
 でも、今日は昼すぎからとても大事な商談が‥‥と、言いかけてやめた。
 「ああ、たった今から行くよ。それがたとえ宇宙の果てだとしてもな」
 さっそくYとの電話のあと、わたしの身代わりで部長が直接商談へ行くよう報告、連絡、相談をする。
 「おい、おまえ。何を考えているんだ」
 部長が、顔を真っ赤にして言うので、
 「もちろん、エッチなことばかり考えています」
 と、わたしは言った。

 「フルフルの卵か。今朝わたしが見たヘンなのは」
 流れる車窓の景色を見るともなしに、わたしは言った。
 「ああ。捕獲した卵はすぐにも超臨界流体で溶解される筈だ」
 Yの運転する、マセラティ・クアトロポルテは、いつしか靖国通り外苑を走っている。
 「もう少し訊いてもいいかな?」
 「かまわないよ」
 「フルフルって、一体どんな生き物なんだ?」
 左ハンドルを握りながら、Yは私を見た。
 「性的二形性をもたない雌雄同体の生物で、成長すると約二十メートルくらいにまでなる。ほとんど姿かたちは爬虫類の肌をしたステレオタイプの『悪魔』だ。ちょうど牡鹿のような人懐っこい面をしているが、繁殖期に好んで人を捕食する。生体固有の能力として重力の制御ができ、全身がプラズマのシールドで包まれているため成体となったヤツを人の手で殺傷するのはかなり難しい」
 「ふむぅ。いつから地球にいるんだよ、その怖いやつ」
 「おそらく太古からだ。しかも人類の一部‥‥権力者たちは、フルフルを『武力』として利用してきた」
 「どうやって?」
 「餌付けだよ、生贄という名前の」
 「すると、この怪獣が巷に現れるというのは、餌付け役のいなくなった世界情勢と密接な関わりがあるということか」
 そこで前方の信号機が赤となり、やむなくクルマは停まった。
 「然り。第一に、啓蒙思想をふるう僭主に操られたまま歴史的必然(?)によって生じた絶対君主制の衰退と、近代のそれに替わる盲目的デモクラシーの台頭。第二に、資本主義世界の影であるソビエト社会主義共和国連邦の崩壊。第三に、人類の叡智をはるかに超越した大自然のシステムが『敵』である我々を滅ぼすために、かつてこの星では希少種にすぎなかったフルフルを異常に繁殖させたともいえる」
 「それでその、我が国の『政府公認機関』とやらは、これほど重要な問題にどのような姿勢で臨んでいるのだろう? 『えーと、アレですか? アレは映画の撮影でした』では済まされない筈だし。きっとそのうち、事態はさらに悪化する。たった一匹のフルフルが大都市を襲ったらどうなる? 水道の水に、大量の『記憶忘却剤』でも混ぜるつもりかい」
 「そうなることは先ずないだろう。しかし君の気持ちはよくわかる」
 そう言って、Yは沈黙した。
 「――フルフルに弱点はないのかい」
 「もちろん、弱点はあるさ」
 「え、本当に。それって何?」
 「明るい光と、複数の人の響きあう声‥‥それもとくに混声4部合唱。殺すことはできないが、かなり弱らすことは可能だ」
 信号機に、さわやかな碧の光が点った。

 そうして眼の前は、某省の正面出入口だった。
 「マジかよ?」
 Yは、手に持ったIDカードを受付側にかざしてクルマを進入させた。
 「マジさ、今から情報本部管轄の大深度地下にある秘密施設へ行く」 
 「だ、だけどわたしは一般人だぞ」
 「いいや、君は十分知りすぎている。もはや一般人とは言わせない」
 Yは、得体の知れぬ笑みをうかべてわたしを見た。
 「お前、本当は情報本部の人間だったんだな」
 「ちがう。俺は、総理直轄の科学忍者隊に所属している」
 「――なんだかな。嘘くせーぞ、マジかい?」
 「マジさ」
 そのとたん、わたしは素っ頓狂な声をあげた。
 「あっ、クルマが沈んでいる!」
 「だから言ったじゃない、地下へ行くって」
 Yは、真顔になって口を尖らせた。
 まもなく、暗闇に連続する光の点滅がわたしの網膜を刺激した。
 「でも、まさかこんな映画みたいな‥‥」
 「まあね。いつだって現実ってのは、軽く映画をこえているのさ。でも多くの人たちの暮らしにとってそれはあまり相応しいことじゃないからね‥‥。俺たちが守ろうとしているのは、実をいうと君たち一般人が安易にえがく『類型構造』そのものなんだ」
 「よくわからん、それに耳鳴りがする」
 「独り言だよ、気にしないでくれ。さあ、もう着くよ。このリフトはたった今、秒速五メートルの速さで降下している」
 おそらく磁力による反発力がブレーキとして働いているのだろう。徐々に、光の点滅が遅くなってゆくのを感じていた。車重二トンを超える鉄の箱を載せたまま、減速から数秒後、ほとんど床に接触した気配もなくリフトは静止した。「着いたよ、もうじきヤツに逢えるぞ」

 扉が開くと、まるでそこが地下とは思えないほどリアルな、つよい真昼の陽光が薄暗いリフト内部に射し込んだ。
 Yはおもむろにクルマを急発進させた。
 「なんじゃあ、ここは!」
 円筒状のリフトを出ると、そこは蝶の舞う広大な花畑だった。なだらかな起伏の丘と小川のせせらぎ。バニラの香りのする甘いそよ風が微かに木の葉をゆらしていた。
 「どうだい。これこそが君たちの想いうかべる天国の類型構造そのものだろう。ちがうかい?」
 「知らねーよー」なんだか馬鹿にされているように感じ、剥れた顔でそう言った。次の瞬間・・・・。わたしは、とつぜん大きく仰け反った。「゙あー、いだ、いだー!」
 「おー、見ちまったのかい。でも今のは錯覚だったかもしれないぞ」
 「フ、フ、フ・ル・フ・ル」
 ――ヤツは空を飛んでいた。
 剛毛に覆われた下半身のぶら下げたアレがとてつもなく巨大なやつだった。顔は、まさに蛇の眼をした角のある牡鹿であり、背中には蝙蝠のような黒い翼があった。初めて見たにも関わらず、それが悪魔――フルフル――だと判った。
 「ここでは放し飼いにしているんだ。限りなく太陽光にちかい施設の照明の下では、ヤツは闇夜の時のようにけして邪悪ではない。捕食する餌は、君にはとても信じられないだろうが、なんとクローバーの葉と花の蜜なんだよ」
 わたしは震えながら言った、
 「恐ろしい。お前ら、国民の血税を使ってこんなバケモン飼っているのかい!」
 「なんとでも言ってくれ。これらは、『美しい地球』を守るために日々行なわれている血みどろの研究の成果なのだ。一般には知られていないが、次世代の外壁のない航空機は七層のデフレクター・シールドに包まれて、卓袱台を置いた六畳の間が外側に剥きだしになったまま安全かつ超高速で宇宙を飛行する。――これもまた、素晴らしい研究の成果のひとつだ。――おそらく太陽系圏内であるなら、惑星間の移動はおよそ数分内で行なうことが可能となるだろう。さらに、それほど遠くない未来の社会では、電磁波による思考操作によって犯罪も激減する。これらはすべてフルフルの研究の恩得といっても過言ではない。――友よ、今こそ真実を話そう。――光の影は悪魔だが、悪魔の影は光なのだ!」
 「ええと。あのー、お前の言っていることだけど。ぜんぜんわからんぞ」
 すると、今までは夢心地だったYの眼が、とつぜん攣りあがった。
 「それは君自身の問題だ。真実をまえに耳を塞いでいるんだろ」
 そこでYに負けじと、わたしは言った、
 「よーし。それならもっと教えろ」
 「いいとも。リフトへ引き返す、さらにもう一層下の思考操作を研究する『夜の世界』だ。とても危険だが覚悟はよいかな?」
 「ふん」
 わたしは、真顔のYにそっぽを向いた。

 真赤に焼けただれた空が葦(アシ/ヨシ)の茂る沼地を非道の色に染めていた。
 リフトの扉が開くと、咄嗟にここが地獄の一丁目だと感じた。
 「道がヌカルんでクルマは走れない。外へ出て、生身で歩くことになるがいいかい?」
 「ヤツに喰われたりはしないか?」
 「その心配は殆どいらない」
 「なぜだ?」
 彼は押し黙り、「後部座席に長靴がふたり分ある。それを履いて降りよう」と言った。
 まず先に彼がクルマを降り、わたしも恐るおそる外へ出た。
 「あの空は、不気味だな。いっそ星空の方がマシだ」
 「お望みなら、可能だがね。しかし安全上、それは出来ない」
 その時だった、
  
  私は、下町の針子
  空腹と吐息にまみれて
  仄かな夜のしじまに
  純白のドレスを縫いつづける

 とおくで、哀しい詩を口ずさむ声がした。
 「人だ、人がいる」と、わたしは言った。「おい、なんでこんな場所に人がいる」
 「ちがう、あれは人ではない」
 Yが大きくかぶりをふった。
 すると沼の淵にぼんやりと人の影が浮かんだ。
 「見ろよ、やっぱり人だ。それも女じゃないか」
 「幻覚だ、あれには実体がない。しかも私には少年に見える」
 「嘘をいうな。お前、まさかあの女を‥‥。何処から捕まえてきた? 精神病院か」
 「落ち着け、餌なら別に用意しているさ。お前が見ている女も、その声も、フルフルが餌の捕獲のために流している電磁波にすぎないんだ。女の顔をよく見ろ、君は彼女を知っている筈だ」
 「え?、」
 わたしは女の顔を見た。「――理沙!」
 それは紛れもなく、半年前に退社した営業二課の海老原理沙だった。
 化粧崩れした理沙は、着物姿のバービー人形を抱いていた。
 「私たちの子供は、まだ生まれるまえに死んだの」
 「おい、その話はやめろ」
 「この罪は、一生涯かけても消せないのよ」
 「もういい、早く忘れるんだ!」
 「だから私。罪滅ぼしに毎日、詩を書いて読んであげるの」
 彼女は、詩のつづきを朗読した。

  ときおり薬指を刺す、
  あの小さな針の痛み――
  聖歌隊の歌声から
  私をここへ連れもどすのは
  悪戯な夜風にそよぐ
  つよく、しなやかな絹の糸

  漆黒の窓の外で一瞬を照らす
  とおく華やかな光と雷鳴

  暗い路地のどこかで
  捨てられた子猫が鳴くように
  街一番の望楼にのぼってさえ
  手のとどかない空しさがあるように
  
  滲んだ指の血を舐めては
  まだ、私はここにいる
  
  私は、下町の針子
  あなたの顔を待ちわびて
  仄かな夜のしじまに
  純白のドレスを縫いつづける

 「理沙、たのむから止めないか」
 わたしは飛びだして彼女を抱きしめようとした。
 「待て」
 Yが、わたしの腕をつかんだ。
 「おーい、可愛いオネエちゃーん。オイラと遊ぼう」
 彼女の背後から、どこかで見た覚えのある太った男があらわれて浅い水辺に立った。
 すると突然、沼の水がしぶきをあげた。
 男は驚いて腰をぬかしたが、既にフルフルの鱗のある長い尾が片足に巻きついている。
 「あっ、確かあいつはTVで見たことがあるぞ。連続婦女暴行殺人犯のナントカって言う・・・・」
 「そのとおり。逮捕された後もこれだ。きっと彼には、セーラー服の女子学生が見えているのだろう」
 「゙えーっ、でも、いくら彼が死刑囚だとしても果たしてフルフルの『餌』にしても良いのかな」
 「たぶん。――これもまた君たちの類型構造のひとつだからね」
 残忍な「牡鹿」は眼を細めて、宙にぶら下げた「餌」をしばらく美味しそうに涎をたらして見つづけた。男の顔は、あまりの恐怖のために能面のように硬直していた。そうして、バキバキと骨を砕く音ともに興奮したフルフルを鎮めるための荘厳な音楽がどこからともなく流れた。
 曲目は、ヘンデル作曲の「メサイア」よりコーラス。――ハレルヤ! 
 
 「うーん」
 わたしは腕を組んでしまった。
 「どうした。そろそろ戻ろうか、ここはとてもつまらない場所だ」
 「しかしお前。まだ何か隠してないか?」
 Yは、言った、
 「君は世界の恐るべき真実を、これ以上さらに知りたいのか?」
 「隠すな、ぜんぶ教えろ」
 「わ、わかった、わかったよ。実はまだこの下には亜空間の階層がある。この階層こそが、すべての研究の集大成ともいえるオーウェルさえ想いえがくことのできなかった完璧な『ディストピア』‥‥いや、理想世界だ」
 「よし、ではそこに連れて行ってくれ」
 Yは肩を窄め、
 「ふぅ」と、溜息をもらして結局わたしに従った。

 淡いトワイライトの光。
 リフトの扉が開いたとき、わたしは自分の眼を疑った。
 地獄のさらに真下の階層‥‥。そこは見慣れた首都高速道環状線の入り口で、ETCのゲートをくぐるとクルマは一瞬のうちに加速し、Yは無事にわたしを自宅付近の某所へと運んだ。
 「なんてことだ。ここはわたしの住んでいる町じゃないか!」
 するとYが、いつになく冷淡な顔で言った、
 「くれぐれも言っておくが、ここでは曲がったキュウリは存在しない。もちろん、ここで暮らす人々はかぎりなく自由で平等であるが、自由である前にすでに犯罪者は犯罪者であり、たとえば漫画と劇画が区別されるように一見べつの顔をもちながらも、じつは同質の巧妙に選択種を絞ったABC分析の順位付けがすべての結果の判断基準となる。そうして、ここでは真実と引換えに、ごくありふれた虚構の暮らしが無限大に軒をつらねているんだ。ほら、どの家も皆、似ているだろ。‥‥さあ、クルマから降りてくれ。もう二度と君はこの世界から戻ることはあるまい!」
 「だとしたら‥‥」
 わたしは眉間にしわを寄せてYの顔を見た。「やっぱり、ここは、『ここ』じゃないか。アハハハ」
 「ふふ。君からしてみれば、もちろんその通りだがね。たぶん死ぬまで『ここ』はここさ」
 「じゃあ、またな」
 しっかりとした足取りでアスファルトの路面に立ち、沈む夕日とともにかなり乱暴な速さで走り去るYのクルマを、わたしは努めて笑顔で見送った。
 すると上着の右ポケットで携帯が鳴った。
 部長からだ、
 「やっと繋がった。もう、ずっと何度も電話しているんだぞ。今日は一日じゅう、何処をほっつき歩いていた? それで、とにかく例の商談はほぼ成立した。しかし先方は、君でなければ契約書には判を押さないと言っている。明日の朝一番で直行しろ。悔しいが、ちゃんと話がまとまったら君は間違いなく昇進だ。オメデトウ、そしてこの大馬鹿野郎のオタンコナス! ちんぽこ噛んで死んでしまえ」

 ありふれた住宅街が、今日も暮れようとしていた。
 「なんか色々あったな」
 わたしは自宅までのほんの数十メートルを歩き、そう呟いた。「今日か。――それは、いくぶん不可思議な事の成りゆきだ」
 ふり向いて、住宅街の生活道路をしばらく後ろ歩きしてみた。豪邸ならともかく、新築の建売は確かにどの家もそっくりだった。ふたたび前方に姿勢を向けると、すぐそこにローンで買った築五年目のマイホームが見えている。ガレージには、妻が乗るクルマがちゃんと前向き駐車で停まっていた。それから、鐘(つりがね)みたいな花をいっぱい咲かせるアベリアを植えた生け垣の向こうでは、既にセンサー付きの門灯が薄闇にぼんやり燈っていた。
 ――やがて表札のまえで、わたしは一瞬立ち止まった。
 しかし名字が変わった、などというわけではない。
 ただ玄関の外で仄かな外灯に照らされた、ターバンを巻いた少年が一頭の象をつれてこのわたしを待っていたのだ。
 「おじさん、おかえりなさい」
 「え? きみは誰なの」
 「ぼくはインドからきた座敷わらしです。とてもこの家が気に入りました。ずっと、ここに住んでもよいですか?」
 少年は恐ろしく生まじめな面立ちで、ガリラヤから付き従ってきたイエスの身体をわたす夜のマグダラのマリアのように、六日も着つづけた酷く不潔な背広を纏ったわたしを見つめ、そして精一杯の笑みをうかべた。



  (終)


散文(批評随筆小説等) 虚偽と忘却のエピソード Copyright atsuchan69 2008-03-10 16:22:50
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