青虫のキモチになって考えてみました

どうぶつの心の内容を覗きみることは、自然科学の領域ではタブーだし、
主観的にそれをやっちゃうと、サイエンスではあり得なくなってしまう。
それはもはやブンガクだ。
どうぶつ奇想天外法だ。

だが、たとえばアオムシがサナギの殻を破って、アゲハになる過程(のキモチ)を、
『アオムシになり切って』 想像してみよう。

幼虫のアオムシは「単眼」だ。
頭部についた6つの単眼で、かがやく世界を視ている。
ミカンの木の葉っぱなんかをもしゃもしゃしながら、
天敵(鳥とか)が近づいて来たら臭い角をひゅっと出したりしながら、
数回の脱皮を重ねるうちにみるみる大きくなり、やがて樹上で動かないサナギになる。

でも、動かない、といっても、じつはサナギの殻の中は大忙しだ。
幼虫のアオムシから成虫のアゲハになって空を舞うためには、全身の器官という器官を、総入れ替えしなければならない。
成虫のアゲハの眼は、一万個以上の小眼(小さな眼)が集まって出来た、二つの大きな「複眼」だ。
俗にいう仮面ライダーみたいなやつだ。
もちろん、いままで(アオムシ時代に)世界を覗いていた、6つの小さな単眼は、
この先、未来永劫にわたって不要になるから、 ここで捨てて行かなければならない。
あのひどく臭う奇抜な黄色い角も、ふにゃふにゃしたヒダ状の足(本当は足じゃない)も、
かつて「自分だったもの」の多くを、ここで置いて行かなければならない(この先へ、持って行くことはできない)。
いままで使っていた体中の器官も、それに伴う神経系統も、殆どすべて新しくツクリ替えなければならない。
つまり、一世代の間に、まったくべつの身体構造を持った、まったく「べつの生き物」に生まれ変わってしまう、といっても過言じゃない。
そのくらい大変なことが、とんでもなく異常な事態が、木陰でいままさに
アゲハへとメタモルフォーゼしようとするサナギの内部では起こっている。

(もし、、、あり得ないけど、もし、アオムシにも、"ヒトと同じような"「意識」とか、
いわゆる「心」みたいなものがあったとしたら? と仮定して、しかし昆虫のように、
"一世代"において、まったく「べつの生き物」に生まれ変わってしまうがごとく、メタモル
フォーゼしてしまう個体において、 果たして" ぼくたち人間みたいな"一貫した、
連続した「意識」みたいなものはキープされ得るんだろーか?)

新しい眼が、新しい神経系が、そして背中には、デビルマンみたいな巨大な翼が必要だ。
真新しい足も6本、必要だ。一対になった触覚も、そしてストローでチュルチュルするみたいな長い口も。



ああ
ぼくのカラダの、目や口や、器官とゆう器官が、捨てられて、
急ピッチで、あたらしく、ツクリ換えられていくよ。 力んでも、
いくら力んでも、もう、あのひどく臭う角が、出せないよ。
わからない、あのひゅっと出していた、あの黄色いものの出し方が、
どんどん、どんどん、わからなくなっていくよ。
青葉をもしゃもしゃ齧ってた、
ぼくの丈夫な顎の動かし方も、
波打つ足のすべらせ方や、
しめった小枝の肌ざわり、も、
なんだか、何もかも、を、
ぼくはぼくの中で、
どんどん、どんどん、忘れてしまっていくよ。
ところで、ぼくの中で、ぼくはいったい、
さっきから、何をしているんだろう?
いや、誰だっけ、さっきから、、、ぼくは?
、、いま?
それよりも、なんだか、
ひたいのあたりが裂けてきてムズムズする。
背中の真ん中からぼくがビリビリ破けてその
ままどこかへ溢れ出していってしまいそうな
まるでこのまま死んでいくような痛みは、快感だ。


ああ
あああ
いままでぼくは、小さな6つの眼で、ユメをみていたのかもしれない。
どこまでも続く木々の緑と、ささやかな重力にまもられた、幸福な誰かのユメを。
そして、何もかも、を、
忘れて、
3万の眼で、
新しく目覚めるときには、
きっと羽ばたく、誰かのユメの空を、じゆうに飛んでいるんだろう。



散文(批評随筆小説等) 青虫のキモチになって考えてみました Copyright  2008-02-04 01:03:17
notebook Home