(
http://po-m.com/forum/showdoc.php?did=168092の冒頭に転載)
映画は時間とともにヨコに流れる「時間芸術」である。しかし、それはときに、一瞬にして強く深くタテへ垂直に食いこむような感銘を観るものに与えることがある。そのタテに喰い込んだ感銘だけで、その映画のことを覚えていられるし、逆に言うとそういう時を止める強度のない映画に興味はない。そのショットにおいては、宇宙観、世界観ともいうべきビジョンが、時間軸に垂直に、(ぐわっと)広がる。そういったショットは、作家の絶対的確信を持って撮られているものだということには、間違いがない。作家は必ず強い確信を持って、あるショット、ここぞと言うショットを撮らねばならぬ。たとえ、見るものが、「この場面はいったい何を意味しているのか分からない」と思っても構わない。「何を意味しているか分からないけれど、とにかくこのショットには作家の並々ならぬ切実さがある」と思うならば。
時を止めるということ。切実なメタファー。
大江健三郎が「オペラをつくる」(岩波新書)で、映画と小説を比較してこんなことを述べている。
小説の場合、時計の針をいったん止めて、その瞬間での情景を説明をする事ができる。たとえば、馬車が走っているシーンでは、馬車には屋根が付いていて、屋根の上にはシェードみたいなものが縛りつけてあって、御者の横には女が乗っている、ということが語られる。そしてまた、時計の針が進行しはじめる、「馬車は走っていく…」というふうにして。
一方、映画の場合は、時間を止めることができないために、いつも現在としての場面を呈示することになり、メタファリックに拡がる瞬間がない、と、ある若い学者が言う。ところがたとえばタルコフスキーを見れば、情景が進行しているのだけれども、そこにひとつの大きなメタファーが停止したように拡がるのを確認することができる。このように大江は語る。
タテにメタファーが直立して拡がり、それがメトニミックに物語を横につなげていって、そしてまたメタファーがタテに拡がる、そのように進行していくものが、小説のみならず映画でも可能であるということ。世界とはこういうものだというビジョンが一挙に提示されるメタファー的な瞬間が、なんとかかんとか物語の軸において、時間を与えられつながっていくということ。(物語というものは直立するメタファーを横につなげるための装置にすぎない、などというと極言だろうか。)そのビジョンなりメタファーなりが、魂の救済と強く結びつくとき、アンドレイ・タルコフスキーの映画の宇宙は、見る者の心の中に立ち現れ、拡がり始めるだろう。
僕はビクトル・エリセとアンドレイ・タルコフスキーと佐々木昭一郎が好きなのだけれど、同じくこの三人を好みの作家に挙げる河瀬直美の「殯の森」を見ながら、大江健三郎が武満徹に語りかけていたこの「縦に拡がるメタファー」ということを強く思い出さずにはいられなかった。「殯の森」はストーリーとしてはややリアリティに欠け、横の展開で人を惹きつける映画だとは言いがたい。しかしながら、ところどころに「縦」の瞬間が露呈するところにこの作品の魅力がある。
最後のシーン。主人公の初老の男性が穴を掘る。とにかく掘り続けている。なぜ掘るのか分からないまま、われわれは彼が穴を掘り続ける行為を見続けることを強要される。見る人によっては、単に退屈でつまらないシーンかもしれない。しかし、その行為には、無目的的に見えるがゆえにかえって何らかの彼にとっての切実さが伴っているようにも感じられる。その切実さに共振しえた時、見る人のなかにひとつのメタファーあるいはビジョンが拡がるのだ。このシーンの切実さは、演技者、キャメラ、音声、監督、その場にいたすべての人たちに貫通しているように感じた。そしてその切実さは見る者へまで突き通り、その心の中で拡がりうるものではなかったか。
彼は穴を掘ったあとに、穴にうずくまって寝転がる(この行為もまた何のためだか分からない)。そこへ空からヘリコプターの音が降り注いでくる。ストーリー的に解釈すれば、このヘリコプターは山に遭難した彼の救助のために来たにすぎない。しかし、ここで(映されることのない)ヘリコプター=彼=穴の垂直の関係のなかに、「殯の儀式を終えた彼への天からの祝福」とでも言いうるメタファーが拡がっていないだろうか。それはたとえばタルコフスキー「ストーカー」におけるゾーンの「部屋」に降り注ぐ祝福の雨のようなメタファーだ(これもまた天からの垂直な運動)。
「何かを信じて」穴を掘るという行為の切実さは、同じくタルコフスキー「ノスタルジア」の温泉のシーンにおけるろうそくの火渡しの行為の切実さと同種のものだ。「ノスタルジア」のこのシーンにおいては、主人公が手に持ったろうそくの火を対岸のろうそくへ点けようとして、こちら側の岸からゆっくり歩いていくのだが、風が強くて途中で消えてしまう。すると主人公はまたこちら側の岸へ戻って、延々と同じことを繰り返す。シーンはカットされず、ろうそくの火が無事に対岸に着くまでキャメラは回され続けるだろう。その過剰なまでの切実さ。ある人はこの長い長いシーンを退屈の一言で片付けるかもしれない。しかしその切実さを汲み取るものには、その「行為」がいかに彼らの魂(とその救済)に深く突き刺さっているかを感じ取るだろう。その過剰なキャメラの長回しにおいて、たしかに時間は流れているけれど、本当に時計の針は動いているのだろうか?ひとつの切実なメタファー/ビジョンが演技者とキャメラと観客を貫いて拡がるとき、それは止まっているのではないか?
映画を見るとき、不意討ちのように、われわれはこのような強くて深くタテに垂直に入り込むようなビジョンを目撃することがある。そのような体験を求めて、いつも期待はずれに、僕は映画を見続ける。