作者より:
>比呂さん
線形として捉える、ということ、同一性、あるいは横の運動、といった言葉を挙げられましたが、これらは言い換えると、「物語として意味をなすように至らしめる」ということだと思います。ここで、映画は物語を語るための装置ではなく、映画は映画として大切なんだという、蓮實さんの主張(ていうかこんな一文でまとめていいのか)を想起し、彼が擁護し私が理解できないゴダールの映画、そこにおける物語の断片化、というか物語が無かったりする、ということを想起もしました。解釈能力よりも動体視力を、物語の意味よりも視覚的細部を、なんていう二項対立にまとめていいのかしら、だめなのかしら。比呂さんが挙げられた言葉たちは前項ですが、それに対抗するのが果たしてこんな後項でいいのか。蓮實さんが好きな私は同時に蓮實さんが嫌いなタルコフスキーが好きなわけです。そして蓮實さんがなぜタルコフスキーが嫌いかと言うと、(たぶん)魂の救済とか、そんな芸術芸術したテーマを主張したいがために、そんなことに映画を「使う」なんて、許せないからだ、と思います。「映画作家というよりも、映画を手段とする芸術家」たろうとしている、と言うような言い方をしていたと思います。困ったことに、私はその魂の救済が大好きで、映画を手段としたっていいじゃないか、と。ベルイマンが映画的というより演劇を映像化しただけ、みたいなことを言っても、でも「処女の泉」で最後水が出てくるところなんか実に笑えていいじゃないか、と思ってしまう。ある意味、僕は先ほどの前項に対する後項として、解釈能力よりも妄想能力、物語の意味より(ある種)宗教的ビジョン、みたいな物を据えることによって、小栗さん言う「線形」性に対抗しようと思うのかもしれません。蓮實と映画的同盟を結んでいたように思える武満徹がタルコフスキー大好きな人だった、ということ、そしてその武満が大江とともに、タルコフスキーにおける宇宙的ヴィジョンみたいなことを語り、それをオペラで実現しようとしていた(結局実現されなかった)、その実現されなかったオペラをそのような対立項として夢見るわけです。「いろいろな聴衆、観衆が集まってきて、オペラを見て、そこに一種の新しい和解、統合が行われるような感じが僕はほしいと思うのです。それもファシズムみたいな統合ではなく、ほんとうに個人的に生き生きしながら統合していくような」(武満) オペラこそアリアや合唱が連綿と続いていく線形性にあるような気がして、オペラ苦手な私は、武満もオペラが嫌いであったことを知るに、わーい、と思ったのですが、そのオペラ嫌いの武満が、タルコフスキー的統合のヴィジョンを介して、大江健三郎の「治療塔」を谷川俊太郎の歌詞でどのようにオペラ化しただろうか、ということを考えるに、彼の早すぎる死が惜しまれてなりません。
>こもんさん
サンクスです。なんだかそう強調されると大して映画見てないのにはずかしくなります。
>ユーリさん
ありがとう。あなたになるほどって言われると嬉しい。「ちょっと」かもしれないけどw
>夏野雨さん
ええ、映像は惹かれますね…大好きなある一ショットがあるから、他は大して覚えていないくせに「あの映画が好き」とか、言うものですね。