風潮と予定調和(ニュースを見ていて思うことなど)
塩水和音
誰がどんな文脈で発した言葉なのかもすっかり忘れてしまったのですが、とても印象に残っている言葉があります。
「あらゆるものはあいまいです。それを正確にしようとするまではそうと気づかないくらいに。
そして正確なものはいつでも私たちが普段考えていることとかけ離れているので、考えを口にする時に自分がちゃんと正確な事を言えているとは一瞬たりとも考えられないのです」
***
「悪い事をすると、自分の身にいつかハネ返ってくる」など、一種の理想・予定調和的世界を信じさせるように内外の人々に迫る、主に道徳的な「風潮」てのがあります。このような風潮を作る言葉には、長期的経験や論理などの背景があることはあんまりなく、しかし多くの人によって執拗に繰り返され、その結果、その真理性が背景を持たずに自明の事のように流通するという傾向があります。
一見もっともらしく、多数の人に各種の利益をもたらす風潮ほど、純粋に信じる人が増え、大きくなっていきます。大きくなった風潮は、それ自体と予定調和的世界を保つため、いたわるような仕草で、事実を隠蔽するなど圧力を発揮します。その不自然さは、娯楽作品や報道等に、ゆがみや偏りとして見て取る事が出来ます。
たとえば、「親に感謝すべき」という風潮を思い返してみる。一応確認しますが、思想や心情は自由な筈なので、感謝したくなればすればいいし、したくなければしなくとも良い。常に、親に感謝しなければならない理由は論理的にはないのですが、この風潮を信じている人は多い。親を大切にする事としなければ年老いた親が困るのと、進んで立派な事をしたがる若者等がいるから、「真理」とされているのです。
それでは、親に感謝できない・しない人がいたら、彼らはどうするか。彼らはそのような人を、「人間的に幼い」と位置づけ、一方で親に感謝するようになることを「精神的成長」と設定し、あの手この手で相手を「成長」させようとします。レールを引いて、誘導を試みるという事でしょう。そして重要な事ですが、実際に、親に感謝できない自分を「未熟者」だと考える人が少なくない。そんなふうにして、「全体」の秩序と、予定調和的世界が保たれる。そこでは、たとえば、親の事など心の底からどうでもいいと思っている人なんかは存在しないという事になっていたりする。
これらは別に俺個人の妄想という訳でもなければ机上の空論というわけでもないはずです。テレビの事故被害者遺族インタビューに、たとえば「認知症の父親が死んでしまい、少し悲しいけれども、どちらかと言えばホッとした」というふうな「複雑な心境」をした人間が存在しないのは、こうした風潮が人々の間にあって「当たり前」な事として生きられており、ある程度の圧力を発揮していることを物語っているのではないでしょうか。
このような風潮が存在する事が、人々を律し、また人々の欲求を解消し、社会の表層的な安定を保つ事に一役買っていると思うのですが、一方で、適応出来ない者の反発を煽ってしまう側面もあります。
たとえば、親に感謝すべき理由などないと気づいてしまい、かつ親に反感を抱いている少年などは、風潮によって孤立させられたように感じ、教師やマスコミといった社会の表層に広く反感を持つようになっていったりするのではないでしょうか。
「人間は平等だ」という風潮に、現実の生まれ持った貧富や能力の差から反発を覚える人はきっと少なくない。それでもなお、「人間は平等だ」……と言われ続ければ、やがてその人らの一部は、理想と現実の乖離に苦しんだり、ふと、平等というタテマエの下で行われる搾取などに気づいてしまい、やがて「悪意」を持ってそれらに対立するようになっていく、かもしれない、ということです。
このような過程を経て、世の中への「復讐心」を抱き、犯罪者なんかになっていく人もいるのではないか。
個人的な感触を述べさせていただけば、犯罪者にならなければいけないほど俺にとって事態は深刻ではない。また、おそらく俺自身世の中のあらゆる背景を持たない風潮から「自由」ではないでしょう。ただ、一部の風潮については適応していることもしないでいることも出来ますが、それら一部の風潮には「現実」との齟齬から、違和感としらじらしさを感じます。それは「水戸黄門」やNHKの朝ドラなどで繰り広げられている世界に対して思うのと同質なものです。(たまには悪くないですけれども。)
だが、風潮のあるおかげで社会の安定が保たれているとするならば、嘘くささはあるものの、それ自体は妥当だと言わなければなりません。だから、積極的に破壊しに行こうとは思いません。とはいえ、積極的に加担する気にもなれません。
加担する気になれない理由は、嘘くさいからというだけではありません。風潮に無意識的に迎合していることが、水面下で、他の「何か」を視界から消すからです。例えば、いつだったかNHKの討論番組で、40歳くらいの女性が、「自宅出産の経験から、命の大切さを実感出来た」というふうなことを語っていたのですが、自宅出産という命を危険に晒す行為への反省抜きでそんなふうなことを語られるのは俺から見ればちょっと違和感が有りますが、しかし「命の大切さ」という風潮の内部にいる限り、この違和感は認識出来ない、と思うのです。
これがいわゆる「コミュニケーションの暴力性」というやつなのでしょうか。ともかく、そんなわけで、「上手いやり方」を探す為に、なるべく数歩は距離を取りたい。内部にいる人々には、「幸せ」を含めた各種の利益を供給しているには違いないにしても。