ニュースを見ていて思う事など
塩水和音

日々、ニュースを見ていて奇妙に思うのは、殺人事件などで家族を亡くした遺族の中に、インタビューで心境を聞かれて「嫌いな奴が死んでせいせいした」…… とまではいかずとも、「家族が死んでしまって悲しいけれども、どちらかといえばホッとした」と感じると答える人間が「いない」ということです。
全ての人間が家族を好きなわけではないし、家族との関係に緊張を感じている人は少なくないでしょうに。
幸運にもというか不運にもというか、家族を亡くしてインタビューに答える人達は、ことごとく家族のことが「大好き」だったのでしょうか。それは奇跡的です。
仮説のひとつとして思いつくのは、こうしたインタビュー自体が「脅し」に近いのかもしれないということです。例えば、家族を殺された人間が、テレビのリポーターに「被告人は懲役XX年ということですが、この判決で妥当だと思いますか?」などとたずねられたとして、それで構わないと答えた姿が報道されてしまったら、おそらくその人は近所や職場等の人々から「冷たい」扱いを受けるでしょう。
また、おそらくこの世には「家族を好きになるべき」という風潮が存在します。それとともに、このような報道が繰り返されることにより、「家族を殺された人間はこういう気になるのだ」という意識が社会に蔓延します。
その気になっているのではなく、その気になったフリをしているか、その気になっていると思い込んでいるのかもしれない。


問うている側にそのつもりがあろうとなかろうと、答える側に一種の圧力が掛かり、特定の語り方や主張を規定されるという事態があります。日常的に誰もが経験するくらい自然に起こることです。例えば、ニュースリポーターの質問の全てはこうした圧力を帯びるでしょう。女性に「どう、この服似合う?」と尋ねられた男性は、審美というひとつの観点からだけではなく、女性の気分や好みを「読んで」返事をしなければならなかったりする。
そして、そのような圧力に、人は自分を適応させていく。「家族を好きになるべき」だという論理的な理由なんてひとつもないが、それでも、「家族を好きになるべき」という風潮を「皆が言っていた事=妥当な事」として受け入れていく人は多いように。
そうした事態の是非はともかく、そこから自由であってもいいでしょう。
自由になるための方法としては、
・問いにかかっている圧力の構図を見抜くこと
・要請される「答え」とは別に、意識的に自らの「本音」を探ること
などが考えられる。


散文(批評随筆小説等) ニュースを見ていて思う事など Copyright 塩水和音 2008-01-24 12:13:07
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