作者より:
・相田 九龍さん
>付け加えるとすれば被害者意識でしょうか。
どこにどのようにどうして付け加えるべきなのかわかりません。
が、とりあえず言っておきたいのは、
『また、おそらくこの世には「家族を好きになるべき」という風潮が存在します。それとともに、このような報道が繰り返されることにより、「家族を殺された人間はこういう気になるのだ」という意識が社会に蔓延します。』
てのは、嫌いな奴が殺された事に対してまで「被害者意識」を「覚える」人がいることを説明する文です。
>女性に関する審美はともかくとして、
>ザックリし過ぎているように感じます。
すいません。
>僕の経験談以外の何ものでもないと
>言われればそれまでかもしれませんが、
>自分に思い込ませるというより、
>失ってから気付く感情というのは思いの外多く、
>また、普段から大事に思っていても
>伝え切れない思いというのは意外と
>あるのではないでしょうか。
とりあえず、「家族を亡くしてインタビューに答える人達は、ことごとく家族のことが「大好き」だったのでしょうか。それは奇跡的です。」
俺も一応、その人がいなくなってから、急にその人に対して痛切な感情を抱いたという経験はあります。
一方で、「身近な人が死んだら自分は絶対悲しむと思っていたけど、実際に死んでしまったら、意外に悲しくなかった」という人もいます。その後人によっては急に悲しくなったり、結局全然悲しくなかったり、色々です。
失ってから気付く感情というより、自分に思い込ませることも、相田さんの思いの他、多いかもしれないですね。
あと、「失ってから気付く感情」と言えば、当人らは相手を大事にしていたつもりでも意識していなかった、相手に対して持っていたストレスてのもあるんじゃないですか。それが、相手が死んでしまってから、悲しいようでどこかほっとするような気持ちとして滲み出てくる。
「家族が死んでしまって悲しいけれども、どちらかといえばホッとした」というふうに。
人の心ってのはもちっと多様で複雑で繊細だと思いますね。
---2008/01/26 12:18追記---
・ひばりくん
それを思い込みと言います。
・相良ゆうさん
ども。
---2008/01/30 12:00追記---
・ふーふー。さん
いや、やめといたほーがいいと思いますけどね。笑
・ひばりくん
俺が「思い込み」と書いたのはそういう意味ではないです。
>でもどんなに嫌いな相手でも、死んじゃうとやっぱり悲しくはなるような気がします。
このコメントには、「誰が」という部分と、「根拠」が抜けています。
えっと、まず「やっぱりホニャララな気がする」てのは、何らかの論理や長期的経験や学説に基づくものではなく、ひばりくんの抱いている「イメージ」にのみ基づいているということであり、それがつまり「先入観」ですよね。
また、ひばりくんが今までそうだったからと言ってこれからもそうであるとは限らない。
ひばりくんがどうであろうと、他の人らがひばりくんと同様の感じ方をするはずがない。
この三つから、「思い込み」であると。
まあ、それはいいとして、社会が誰かを操るというのはよくわからん表現ですね。
とりあえず、出来ると思います。文脈から、いくつかのパターンを思いつきます。
パターン1
社会を操っている誰かなんていません。
パターン2
「社会」を、ある人物を取り巻く諸関係のことだとする。感情を感じる「主体」は、各種の社会的関係の中で生まれるものですから、そういう意味では「社会に操られなければ」感情は生まれない。
また、日常的にも、人間は自分の感情を100パーセント自在に操ったりは出来ません。ある程度は自然に「流れ込んで来る」部分もある。そういう意味では、お笑い芸人に「笑わされる」ことは感情を「操られている」ということなのかもしれない。まあ、矛盾しているんですけどね。
「感情の全ては思い込み」です。100パーセント自分の意思でやったと言い切れることなんてないんじゃないかなみたいな。
パターン3
「社会」をマスコミや学校と言ったものに限定すれば、教育などのカタチで出来ると言えます。報道などはあからさまに感情を煽り立てるようになされていますが、報道に影響されて社会に不安を持つ人は多いので、こちらも「操る」の日常的な意味では出来ると言えます。
逆に「出来ない」とするパターンの方が考えづらくないですかね。