こんな夜は凶暴になる、
榊 慧

 だから、そっちへ行ってもいいか。







俺はむごたらしい目をしていた。冷蔵庫のブウウウンンという低い振動音が足もとを這いずっていた。でないと俺はどうにかなりそうだ、おまえが俺を止めろよ。いびつな笑顔だと思った。また勝手に何かを苦しんでいる。俺は目を細めた。開け放した扉の前に立つ俺の背中には死にたくなるほどの鮮やかな月があった。それはてらてらと光って画期的な色合いで浮かんでいて、あまりにも巨大だ。大きすぎて欠損してしまう。
背筋が振動で温まる。なまぬるい、体温のような空気に軽い吐き気がこみあげる。夜泣のような風が喚いてびっしりと文字の詰ったノートのページを静かに乱した。手を伸ばした。指先は熱く、そして震えている。俺は幼い子供のように目をこすり、鼻を啜り上げた。それから息を殺した獣のやり方で、いちいち爪を食い込ませて歩いた。五歩で俺の距離はあっけなく縮まった。汗で張りついたシャツの下から呼吸のたびに上下する胸の動きが見えるほどだ。
俺が手を伸ばした。それはやはり戸惑って中間を静止する。俺は大丈夫だと息だけで言い聞かせてその手を握ってやった。手のひらも甲もすっかり汗で湿っている。手を軽く引いてやるだけで俺のこわばった体は簡単に折れて沈み込んだ。自分で抱きしめても俺の体はずれ落ちる。気が狂いそうだと思った。
全身を弛緩させたままで俺が言った。声だけがやけにぎらついていた。笑い声はくぐもっていて泣き声のようにも聞こえる。髪を梳いてやると顔をこすりつけてきた。
心臓の音を聴いてんだ、拳大の肉の塊。呟いた。腋に手を入れて背中を抱きしめた。指が汗で汚された。月はいまだ赤っぽいまま、流れてゆかない。
水みたいな匂いがする。呼吸を荒げた。水だ、水の匂い。声は徐々に薄れてゆく。よくないことはわかってるんだ、こんなふうに、なだめられるのはよくないんだよ。瞼が痛々しくひくついた。笑っているのかもしれない。なんか、なんだろうな、わけわかんねえけど自分が止められないっていうか、救いようがない、木っ端微塵だ。語尾はすっかりかすれていた。
大丈夫だ。俺はまた同じことを言った。腕のなかで俺の呼吸がわかる。肺から息をしぼり出した。
俺はゆっくりと背中をさすった。空気はあいかわらず生温く、酸素は揺らいでいた。ときおり痙攣のようにもがいている。何がそうさせているのかはきっと俺には一生わからないだろうと思う。疾走しながら何かを必死で探している。
多分、俺は今、まったくの不感症だ。不感症のなかで眠りにつく。
体中が湿っていた。それでも背中をさすり続けた。陥没してしまいそうな俺の体を抱きしめた。もうとうに染み込んでいる鼓動に集中した。開けっぱなしの扉がギィ、と軋んだ。



自由詩 こんな夜は凶暴になる、 Copyright 榊 慧 2007-12-30 11:56:34
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