ひとよ
ヴィリウ

奴は俯いて云つた。
惚れた女が出来たと。
女が子を孕んだと。
其れ以上は云はずとも、何を欲してゐるのかは、痛い程好く判つた。
なしを、付けて遣らう。
掛けた答ゑで、奴に血の気が戻つた。
ひらひら、ひらひらと夜の花が舞ふ。
おれと、奴との境に。


御前はまう、忘れてゐるだらう?
ひとよ、
たつた一夜咲いた、あの甘い花を。

はらはら、はらはらと、
此の胸で蜜を零し続ける、あの花を。


此の街を出やうと思ふ。
女と子と、何処か遠くで新しく、
生きてみやうと。
此の先を語る目に、何か光るやうなものを見て、此れはまう駄目なのだなと悟つた。
仕方がねェさ、
魂が、惹かれ合つちまつた。
なぁ、さうなンだらう?
洩れたのが苦笑ひだつたのが、自分でも意外だつた。

夜に舞ふ、白い花が憐はれだね。

あれは御前、おれのこころだよ。



初めて会つた日の事を、憶へてゐるか。
ひとつの飯を分けあつた事は。
雨の日のおつとめは。
凍ゑる手に息を吹き掛けあつて見上げた空の色を。
闇に揺れる夜桜の夜会は。
あの夜、たつたひとよ、
一夜だけ共に見た夢は。

あの夜だけ、一度だけ触れ合つた手に咲いた白い花を。

御前、

此の先も、屹度憶へてゐて呉れるか。


其れだけ、叶ふならおれは。




だうも、御有難う御座居ました。
迷惑ばかり、御掛け致しました。
嗚呼、
今生の、別れで御座居ます。

馬鹿丁寧に手を付いて、
仕様の無い阿呆。
何時か昔に、変はらぬもの等何一つ無いと云つたけれども、
あれは戯言等ではなかつたのだね。
口に出したら、本当に成つちまいやがつた。
嗚呼、
御前の貌を忘れないよ。

迷ひの無い、其の目を。

あの夜もさうだつた。

たつた一夜の夢も、御前はそんな目で見てた。





好い晩だね、今宵は。

月も出やがらねえから、

頬が濡れてゐても判かりやあしねえ。


好い晩だね。

ひらひらと、惜別が舞つて。


散文(批評随筆小説等) ひとよ Copyright ヴィリウ 2007-12-11 23:38:49
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