降りつのる淫雨のように
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その太陽の中で夏があえかに蘇るポストの扉を、十二月がジョルジュ・サンド広場へ殺到する以前に、あたかもクーリングオフで梱包され損なった航空便が、ひとつまたひとつ再検査に引っかかり、検閲され、徴収され、洗面器の平板さに静まり返った日没の東京湾に、極秘裏に横流しされてしまうきっかり三十分前、淳子は走った。ひた走りに走った。発情したブラウスのカラーが背景の組み合せに溶暗してしまうほど、野卑で軽薄な笑い声をひっきりなしにあげている食堂の向かいでは、ときおりブルジョア階級層全体の先の尖った観葉植物が、白い蒸気を大っぴらに吐き散らしつつ爆笑また爆笑を誘っていたが、何度もめまぐるしく右から左から押し寄せる、水死体の睾丸のようにぶよぶよとした狂躁のさざ波が、木の根の裂傷した傷口に癒着し、乳頭の色の赤い風船が閉鎖したアーケード街に向かって、ゆっくりとまっしぐらに爆笑しながら枯渇していくオゾン層に、ややあって馴れ馴れしく背中を叩かれた。
「失礼、おっと失礼……連隊あがりで血の気の多い連中でしてな。先だって二週間前も、無駄に広がりのある塹壕から、こいつら、列をなして抜け出したのです。山脈の麓に沿ってまばらに点在する、ほぼ廃棄された養鶏場に住み着いた、痩せこけたヤマツバメをまるまる二十羽ばかりほど……ハハハ、なにせシーツにこびり付いた下血のような、チョコレート色にぎらつく勲章を、上半身や下半身にこれ見よがしにぶら下げた幹部将校連中の、もっともらしく吹聴する事など、ともかく話半分にしか過ぎないですからな……馬丁が居酒屋で集まってやらかす、手のこんだ猥談のようなもんです。水死体ですな。ヨッ、とか、ホホィ、とか言ってりゃ、色褪せた退屈な時間もなんとかやりすごせる。まあ、我輩の手入れの行き届いたカイゼル髭に免じて、無礼の段、何とぞ見逃してやっていただきたい次第でして。なにしろ平日の昼間っから、血の気の多い連中でね。今、何℃ですか」
透明な日傘をさしたフロックコートの紳士が、見たこともない右隣りの部屋から怒鳴り声で、無言で、あるいは猫なで声で、具体的な疑義をにわかに呈した。それはあられもない三重奏となって、客間のクローゼットのふちを巡って、ぐるりと克明に鳴り響いて、端正に着座した。
「それは、疑いもなくオレンジなのです」
保険外交員は完全な確信をもって、不敵な笑みを口元にうっすらと浮かべつつ不敵に肯いたが、そのまさに三秒前に、突然自分はとてつもない考え足らずの幼稚で馬鹿な、いわば幼稚で馬鹿な言説を不用意に表明してしまったのではないかという、環状列島のような激しい自責と後悔の念にかられ、完全だった確信は絡みついた虚栄心と共に木端微塵に打ち砕かれ、瓦解し、煩悶し、懊悩し、ドルイド僧にも似た深刻な表情で彼は円形の地下室(カタコンベ)に憤然と忍び寄ると、即座にあらかじめ闇ブローカーを経由して密かに手に入れ、便器の水槽に秘匿してあった青酸カリをかっきり致死量の120パーセント分、およびレモン1000個分のビタミンCを服して、「お母さん」と呟き、初恋のチアリーダーの写真に熱烈に何度も接吻し、二十歳になる誕生日の三日前に前のめりに倒れて死んでしまった。
一方、九十メートル先の噴水のある泉を、石造りの側壁が取り囲んでいた。側壁には、凝り固まった茶色い吐瀉物のような泥濘が一面に塗されていた。その青白くくすんだ一角に、入院患者が使いそうな灰色のざっくりとしたローブを羽織った老人が、じっとゴシック様式の彫像のように座って動かなかった。埃が積もったディスプレイの前を、いくつかの表情の模写が通りすがっていった。男たちは皆一様にズボンのチャックが開いていた。路地から少し奥まった敷地に建つ動物病院の正面入口は回転扉だった。花弁のように精巧な回転扉のメカニズムが、いみじくも街区の過去の姿をプリズムのように映し出し、黒い手袋の女はその境界で会ったことのない人物と再会した。
ほとんど奇跡的に女が境界を抜けると、そこは異国風であり、夜の情景だった。むろん、男は寝台に裸で横たわっていた。滲んだ星明りの下、女は疼くような肉欲を胸の底に覚えた。御影石の床一面を、夜露に濡れそぼった落ち葉が蔽っていた。その床を女は這っていって、男の太腿に取りすがった。女は男の撓んだ男根に左手を添えて、自らの女陰に導いた。かすかな吐息が女の口の端を震わせ、低い破裂音を発すると、どこからかペパーミントの香りが漂った。女は黒い手袋を外さなかった。全裸になって、黒い手袋と靴下のみ身に付けていた。また、頭に数本の孔雀の羽根を刺して飾った茶色い帽子をかぶっていた。そこから垂れた黒色のベールが女の顔全体を覆っていて、男は女の顔を見ることは叶わなかった。女は仰向けに横たわった男に跨り、男を挿入させたまま、ゆっくりと赤子をあやすようなテンポで腰をグラインドさせた。外ではシタールの音が幽かに響いていた。香を焚いた紫色の煙が漂う薄暗がりの中で、男の目には、女の首と手先と足先が消えているように見えた。女が黒い手袋と靴下を付けていたゆえに。首と手足の欠けた女の白い肉が、寝そべった男の真上を前に後ろに揺れ動いていた。男は目を閉じた。男が目を閉じると、瞼の裏で明暗はすばやく反転した。閉じた目の中で、女の首と手と足の先だけが、闇の中で輝かしく宙空に浮かんでいた。
不意に男は女の顔を見たくなり、ベールに手を伸ばした。男が伸ばした手を、女は邪険に振り払った。すると、男はますます女の顔を見たくなり、執拗に手を伸ばすのだが、手を近づければ近づけるほど、女の顔は遠ざかっていくようである。男は何だか意地になっていた。タランテラの舞踏のリズムが高まっていた。今や男は半身を乗り出して、手を伸ばしていたが、突然、足元を踏み外して、引っくり返った。男はばたばたと手足を泳がせて、自由落下していた。視界は白く塞がれ、体はでんぐり返る。夢中で目の前の女の脚につかまると、男は相変わらず寝台の上におり、女と上下互い違いに逆さまに並んで、横になっていた。女はおもむろに指先を男の膝に走らせると、男のペニスを口に咥え込んだ。男は女の性器を探し求めたが、女の胴体は思いのほか短く(あるいは男の胴が長いのか)、随分下方に離れてあった。男は女の腰を無造作につかんで、ぐいっと引っぱりあげた。引っぱられて、女の口がペニスからぬるりと外れる。男は慎重に女の陰部を鼻元にたぐり寄せ、首を左右にひねると、うやうやしくクリトリスに吸いついた。女は慄然と腰をくねらせ、逃れようとした。男は交差した左右の掌で、女の左右の尻を鷲づかみにしっかりと掴まる。女は足の指先をシーツに引っ掛けて、力強く二度、三度と蹴り飛ばし、魚のように男の手を逃れると、荒々しく男の体を逆向きによじ登り、再びペニスを口に咥えた。男はまたしても女の腰を引っぱり上げようと試みるが、女は足先の親指と人差し指をシーツに絡めて抵抗する。男と女は互いの性器を追い求めて、一進一退の攻防を繰り返した。そうしてシーツを蹴って追ったり逃れたりの結果、二人は寝台の上を反時計回りに延々回り続けた。ぐるぐる、ぐるぐると。やがて、男は疲れてまどろんだ。
ひたひたと絶え間なく石床を打ちつける水音が響いて、男は目を覚ました。最初は、ああ、雨が降っているのだと男は思った。密やかな侘しい水の音、便器を打つ排尿のような。しかし、音はすぐ傍の建物の内側から聞こえてくるので、雨ではなくシャワーの音なのだと判断した。床に女の手袋と靴下、そしてベールのついた帽子が散らばって落ちていた。男はやはり女の顔を見たいと考え、頭をぶるっと振って起き上がると、よろよろとシャワーの建物へ歩を進めた。今度こそ、女の顔を覆い隠すものは何も身についていないはずである。バスルームの鮮やかな紫色のカーテンを押し上げて、ついに男が勝利者のように浴槽へ闖入すると、そこに女はいなかった。それは無機質な壁に囲まれた不在の空間だった。糸を引いて排水溝に滴り落ちる淫雨のようなシャワーノズルの水流だけがそこにあった。


未詩・独白 降りつのる淫雨のように Copyright hon 2007-11-22 21:54:13
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