支離滅裂な駄文 未読推奨 
相良ゆう

 自分が当たり前のように知っていることでも、他人はそれを全く知らないことがある。
 そして自分が当たり前のことだと認識していたものほど、それを知らない人に説明することは難しい。そこには思いもよらぬ説明の困難さがある。
 しかし実はその困難さをつくっているものは、知っていて当たり前だという認識であったりする。説明もする必要が無いほど当然のことであるという認識が、それを知らなかったことに対して要求するレベルが高すぎるのである。逆に言えば、当然であるという認識は物事に対する精緻な分析に欠けており、それを説明するのに必要なものを持ち合わせておらず、教育とか指導とかに求められるレベルにまで認識が高められていないのである。
 
 
 常識を知らないと恥をかくことがある。多くの人が知っていて当然だと認識しているできごとや振る舞いを知らず、その認識に沿わない言動をとってしまい、その言動が常識とは逸脱したものであったと認識することによって、恥という状態が生まれる。恥の源泉は人の認識である。ある事柄や行為に対してそれが常識であるという認識を持った人が多く集まった所に、たまたまその常識を知らない人が紛れ込んで常識に沿わない言動をとる。人はこの恥が恐ろしいのである。恥をかくくらいなら、その常識を推測して、本当は具体的には知らないのだけれど知っている振りをしておこう。

 人は自分が興味を持っていること以外に対しては基本的には何の関心も示さない。人は自分に関わりが深いと認識していること以外に対しては基本的には何の興味も示さない。これは実に面白いことである。人にいろいろな話を投げかけてみるとその人が何に関心を持っていて、その人の価値観がどのようなものであるか分かる。その点では人は実に正直なものであって、興味のない話を長時間聞くことに耐えられる人は余り居ない。すばやく話を変えようとするか、眠そうな素振りを簡単に見せてくれる。それから自分が興味・関心・関わりを持っている話に持っていこうとする。自分の考え方や価値観や生活などが自分以外の人間にはどのように映り、それらがどのように受けとられるかを知りたいのである。もちろん中にはそんなことを微塵も考えず、ただひたすら快楽を追求するかのように自分の興味をとうとうと話し続ける人も居る。

会話の中に含まれている駆け引きには目を見張る。一体どんな言葉が、人がどんな人間であるかを判断するための基準として使われているか、どんな質問の回答がその人の性格や相性を量る目安として使われているかは、それを使った本人にしか分からないからである。もちろん言葉によって試されているということはよくあることで、それを目聡くかぎつけることも可能である。ポーカーフェイスを保てる人ほど、つまり普段の振る舞いをほぼパターン化している人ほど、その試験には気を使う。自分のことをなんと思われようとかまわないし、特に他人と親しく付き合うつもりもないと考えている人でも、自分が他人を量るときにはそのような駆け引きを試みる。彼が自分に危害を加える恐れのある人物であるかを見極めるためである。また極端に衝突を避ける人は基本的にはその駆け引きの言葉が要求している答えを推測して、なるべくその意に反しないように回答を模索する。結果、長いものに巻き付いてしまうのである。

そういえば人は意見の衝突に慣れていない。自分と他人との認識を一致させることに並々ならぬ熱意を持っている人は、少しでも自分の意見と違うことや、自分の意見を超えたものを認めようとはしない。だから基本的には政治力が問題になる。その場を制する力を持っているものだけが意見を述べ、それに迎合することが常識的な振る舞いである。人の話に耳を傾けることが道徳的な振る舞いであるとか、そんなことはどうでもいい。そいつが自らの支配下にあるか否か。それが問題である。その支配力に屈せず、堂々と意見を述べる人は政敵となりうる存在である。そういう人が徒党を組んで対抗することになれば、中々に厄介な存在になる。だから若いうちに芽を摘んでおくという除草作業が必要になってくる。保身のためである。

意見の違いは認識の違いであって、認識の違いは価値観の違いであって、価値観の違いは思想の違いであって、思想の違いは衝突の原因であって、衝突の結果は双方あるいはどちらかの破壊であって、破壊の後に残るのは痛みだけであるから、意見の違いを恐れるのである。

感情は喜怒哀楽の四つだけで充分である。しかもそれが何であるかを理解する必要はない。顔が笑っているから喜んでいるという解釈こそが絶対普遍の常識であって、涙を流しているから楽しんでいるという解釈が普遍的な常識になることはこの先もありえないであろうからである。知るべきことは笑顔の源泉は何かということである。それが喜びとか悲しみとかいろいろ名前をつけられているが、それは感情を便宜的に区別するためのものであって、私たちが普段認識している感情は一つである。それはどうやら言葉では言い表すことのできないものらしいから、それを知ることができるのは私だけであり、だからそれを他人が理解することは不可能である。言葉になりえないものは理解し得ない。また目に見えないものは理解し得ない。共通の体験や似たような経験があればある程度推測し、同情することはできるかもしれないが、理解することはできないのである。そして社会というところは、人が集まるところは、ある程度の協働が必要になってくるのであって、共通の認識を必要としているから、個々人の感情を無視しても社会的に生きることを強いられるのである。しかしそういうものであるとの認識があり、社会に対してそれが然りであると受け入れられる人と、いや社会とはこのような状態であるべきではない、もっと私のことを知り、私に同情し、私の理想を実現する場所でなくてはならない、と考える人も居るかもしれない。そうするとその人は反社会的な言動を取るのかもしれない。しかしだからといって反社会的な言動がすべての社会に対して不利益に働くとは限らない。他人の欲望は自分の欲望となりうるからである。他人の要求を満たすことは自分の要求が満たされることにつながっているからである。でもそのような人の欲望のシステムに自覚的な人は余り居ないらしい。生きるためだけなら便利さは余り必要ない。楽に生きたいから便利さが必要なのである。人は我侭に生きるようにできているようである。私がこのようなことを書き綴り、迷惑も何も考えず愚かにも投稿するのも、人の我侭な性格によるものであることをあらかじめご了承願いたい。そうです。私は自己主張ばかり強いのです。

此処まで読んじゃった人へ、
時間の無駄になってしまいましたね。ごめんなさい。


未詩・独白 支離滅裂な駄文 未読推奨  Copyright 相良ゆう 2007-11-22 00:54:21
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