瀬賀
リーフレイン

これは 稀少なる学位をば修めたる優秀なる雇われ人である。名を小波と申し候。さても遠江の国、自動2輪跨車を製作する工場なるところの職をば拝命せし候。久しく留め置き候ところに、家うちへのいたはりと申して、たびたび暇を乞ひ候へども、この秋ばかりの納期とぞ請われ、未だ暇を取ることあたわず候。

    「すまじきものは宮仕えなれど
     背に腹代えられぬ薄き懐
     夢に上りし我娘のかんばせ
     ますます蒼く、涙あふるる
     幾千万里をいく風のごと
     頬に触れたし 頬ぬぐいたし」

これは、播磨の国赤穂の宿の身内にて、瀬賀と申す幼女にて候。さても父小波、遠江に召し置かれたまひ、久しく御下りも候はぬところに、重ねてつづる便りの返事もさらにうつつ、このたび自らおん迎ひに上り候。

    「この程の旅の衣も着けぬまに
     とくはやく 着きにけり、
     とくはやく 着きにけり」

赤穂の宿より瀬賀が上りたる由、それそれおん申し候へ。

遠江ノ長「小波、こなたへ申し候。」

    「父上様、瀬賀おん前に参りまして候。」

    「瀬賀よ、一人で参ったか 母上に申して参ったか、
     道中、難儀をせなんだか 誰ぞ迷惑をおかけせなんだか、
     嗚呼、万が一にも
     心悪しき者どもの手にかかったやもしれぬと思はば、
     父は嬉しくも心凍る思いにて候。 
     涙を止めることかなわぬ候。」

    「父上様、ご安心くださりませ。 
     父上様、笑ろうてくださりませ。
     瀬賀は一つも変わることなく、ここにございまして候。
     毎夜、父上様の苦労を想いて、流しておりました涙、
     さても、かようにお元気な父上様のおん前にて、
     日の光にあたった如く乾きまして候。
     父上様、赤穂は秋になりまして候。
     父上様、赤穂の銀杏を炒ってまいりまして候。
     父上様、赤穂の柿を持ってまいりまして候。
     父上様、赤穂の赤塩一匙もらいうけまして候。
     瀬賀のこの指、父上様のおん頬に触れ申し候、
     瀬賀のこの掌、父上様のおん涙 ぬぐい申し候。」

    「さように上手なことをいったい何処で習うてまいった。
     さても長きに、父はそなたの傍を離れて候。
     嗚呼、嗚呼、そなたの姿をただの一つも見逃すまじと
     赤穂の塩に誓いをたてしは、
     そなたがうぶ声をあげし朝
     鏡のごとく凪いだ瀬戸の内海の
     彼方に浮かぶ島々を
     ようように緑に白に彩なす光
     かの陽のごとく
     変幻するさま ただの一つも  
     ただの一つも 見逃すまじと
     砂に息ぶく赤穂の赤塩
     この手にとりて
     口に含みて
     砂の辛さにたてし誓いを
     嗚呼、この父はいったい何をせんや。」

    「父上様の頬をつたひし涙の 瀬賀の枕を濡らし候。
     たとひ幾千万里を超えし彼方の
     影にそひ、闇に溶かしたひとしずく
     花の若葉の夏の嵐の
     季節を背負ひし重みをたたえ
     瀬賀のもとへと
     瀬賀のもとへと滴り候
     その滴りが瀬賀に知恵をとせかし候
     かの滴りが瀬賀にとくとせかし候
     嗚呼、ただひとつ父上様に会いたしと
     ただ、ただその思いが馬車馬の
     目をふさいでまでも駆ける姿となりて候。」

     
遠江ノ長 「さても、木草ならぬ人ならば、
     この並々ならぬ親子の情愛、心動かぬはずもなし、
     げに哀れなり、げに道理なり。
     この上ははやはや暇取らするなり。」


自由詩 瀬賀 Copyright リーフレイン 2007-11-02 09:03:18
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