「迷いというもの」返信/午睡機械さんへ
バンブーブンバ

 先日、午睡機械さんが私の詩をひろげました。彼との出会いは、一遍の詩『遠い自殺』に関する対話からと振り返られます。いつも感じることですし、あまり大きな声で伝えることでもないのですが、引き寄せられてしまうものとは、自分と重なってしまうものか、あるいは全く重ならないもののいずれかであることを、あらためて思うばかりです。『春だから全員集合』ですが、正確に申し上げますと、poenique主宰即ゴルの〆切に間に合わない形で、たもつさん企画の追悼詩集に遅らばせながら送らせて頂くタイムラグを孕んでしまった事実がここにあるのですが、そのタイムラグ自身(迷い)が内包してしまったものを、午睡機械さんが丁寧に読み解いて下さったと感じています。
 
  すばらしいもの
  いつも遠くへいってしまうから
  台所で玉葱を剥く

  玉葱を剥いたからと
  その人にいう      (第九、第十連)


 「玉葱を剥く」のは涙の言い訳ではない。祈りのようなものだ。関係性の服をすべて引き剥がしたら何も残らない、けれど総体としてはみずみずしく目を刺すほどの香気をたてる、からっぽのぼくたちの命のような、その「玉葱」剥いて、静かに認めるのだ。「初恋の人」であり「晩御飯のまな板を鳴らしてる」その人も、同じくいずれ死んでしまうものなのだということを、話し手はよくわかっている。


 一人の不完全さや欠落したものをそのままとらえてゆくと、対話が生まれてゆく、そんなことを知らされる思いです。ここでは、「玉葱を剥く」といった行為そのものを指しますが、作者/語り手とも演繹的には捉えられておりません。とても捉えられなかった。不完全な未消化な時間。タイムラグも生まれる。そのままにしていると、きっと忘却は押し寄せてくるのだろうし、高波の機会は失われてゆく(高波の機会が必ずしも良いというものでもなく、静心の機会も良いのですが)。だからといって演繹的な道筋を力任せに辿ろうとすれば、何かは失われてゆくのだろうし、輪郭をとらえることとは、輪郭をとらえないことだと気づかされてしまう。ただ、そうした「行為そのもの」が何かを抱擁してしまっていることだけは知覚してしまっていて、まるで豆腐を掬うような微震(迷い)の中で記述することを余儀なくされる。もちろん、すべての事態がそうした性質のものではないのでしょうが、『春だから全員集合』に抱いてしまったものについて分類するならば、そうした類のものではなかったかと思います。
 以前、午睡機械さんの『遠い自殺』のなかで、汲み取られた語り手の「迷い」そのものを「迷い」としてそれこそ迷いなく表出化しているところに、当時私は、「迷いはとても可視化されやすいかもしれない」と申し上げました。下縫いのようなものでしょうか。「迷い」はそれこそ「迷い」そのものを掬うことができるのなら、とても危うい儚さと拙さをもって伝わってしまう。というより伝えられる。そこに私は引き寄せられるようなのです。「迷い」に是非はない。蔑むものでもないでしょう。ただ、他者の中にはもちろんのこと、作者や語り手では不可解なものでも、補完的にその柱や梁に当たる部分をなぞりながら、構築されてしまった空間そのものを見つめられる場合があります。というよりかはむしろ、「迷い」という傾きを設えたからこそ、対話(批評)の水脈を導くのでないか。そんな心持ちになります。
 ただ、「迷いというもの」について、ひとこと添えるのなら、限られた時間の中では去り逝くものであり、「決断」はそうした転倒してしまった帰結であるからこそ、「決断」にも「迷い」は香ばしく汲み取られ、コケティッシュに美しく感ぜられてしまう。そうした「決断」の詩も「迷い」の詩と噛み砕いて、戴いています。


 結婚をして、子供が生まれ、家族が生まれ、老いを迎え、そうした輪郭を深めれば深めるほど、名前の知らない輪郭は一層メルティにひろがってゆく。それでも私たちは進み行く。右足を前に出すと、その瞬間に左足を出さざる終えない感覚。そうした「歩む」という機構は、「迷い」を図式化しているかもしれないと、最近では思うのです。




引用
現代詩フォーラム2004/06/07
午睡機械
『その手をとる――バンブーブンバさん「春だから全員集合」を傍らに』


散文(批評随筆小説等) 「迷いというもの」返信/午睡機械さんへ Copyright バンブーブンバ 2004-06-09 16:10:36
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