食の素描#2

「万物には形式がある。形式は必ず崩壊する。万物は崩壊する。」
(ーー吾妻滋郎著『認識の基地』序文より抜粋)



目玉焼きを焼いていた。

朝は数時間前に昼となり、
皿に向かう私の寝癖と腫れた目だけがいつまでも朝のままだった。

油を引かないテフロンのフライパンへ卵を割りいれ、
そのまま弱火でゆっくり火にかける。

フツフツと白身が固まり、
円の外周から中心に向かい、熱波が侵攻を進めていく。
コンロの前に立ち、煙草を吸いながらその様をぼんやりと眺める。
記憶は知らずと、昨夜の狂騒をなぞり始めていた。



「もう一度言ってみろ。
 事と次第によっては、お前と飲む酒も今夜限りと思え」

「有難い話だ。これで金輪際クソ不味い泥水を舐める必要がなくなる。
 その前に払うものを払え」

「通る意味を話せ助六」

「これまでテメエと一緒に飲まなけりゃならんかった俺の精神的痛苦に対する見舞金、そして舌の上で泥汁と化した甘露達に対する慰謝料だ」

「何が舌だ笑わせる、髄液まで甘ったるい名古屋生まれの中濃オタフク中毒が」

「哀れなもんだな、乳の代わりに塩飲んで育った新巻鮭臭い北の先天性腎臓病みってのは」

「野郎」

「下衆が」

半年ぶりの久闊を叙すための酒の筈だった。
数ヶ月の空隙を言葉とグラスで満たしあい、
笑いながら肩を叩き、皿に杯を重ねる。
足取りが覚束なくなる分だけ、
無闇に朗らかとなった心を抱え、
夜の街でいつの間にか別れている。
そんな酒を久しぶりに飲む筈だった。

「……でしょやっぱり」
「あー分かるそれ以外かんがえらんない」
「塩コショウとか」
「びんぼくさー」
「ソースとか」
「キモ過ぎ」

薄寂れたバーの片隅で静かに互いの胸倉を掴み合い、
空いた手でグラスの中身を互いの顔にぶちまけあっていた時だった。

耳朶を嬲るその言葉は、
酔いと怒りで混濁した二人の脳髄を前置きもなく刺し貫く。

「ケチャップとか」
「ありえねー」
「しょうゆとか」
「豆腐じゃないっつのね」
「目玉焼きっていったらやっぱねー」

チン、とグラス同士がぶつかる音。
続いて、唱和する嬌声。

『マヨネーズでしょー』


客の少ないバーだった。
日照りというわけでもない。
適正な酒を、適正な価格で、適正な灯りの下で飲ませてくれる店だった。
客同士が暗黙裏に、店の存在をひた隠しにするような。
偶然店を発見した客だけがその僥倖に預かれる。
そして、そんな客達が赴く足だけで充分店は廻っていく。
そんな店だった。

昨夜の客は、
自分たちとあの女性客。四名だけだった。
片隅にあるテーブルに座っていたため、
おそらくカウンターの女性客はこちらを影としか認識していなかっただろう。

だからこそ、
びしょ濡れ酒塗れの姿でゆらり、とカウンターに近づいてくる影が人影だと
分かったとき、彼女達の笑い声と笑顔は瞬時に凝固した。

「な、ちょ、なにあんたら」

「…ズだと」

「は?」

「マヨネーズだとッ」

「びんぼくさいだとッ」

「キモすぎだとッ」

「卵に卵のソースかけて喰う方がよっぽどどーかしとるわこの悪食大伽藍共ッ」

「っ、な、何言ってんのよ卵に合うのは卵が一番に決まってんじゃないッ
 塩コショウだソースだなんて何処の卑民よアンタ達ッ」

「ゆーにことかいてバルサミコだとッ」

「それはうまいかもしれないッ」

「も、何これ最悪最ッ低ッ、ね、もー帰ろ、マスターお会計」


客の少ないバーだからこそ、
灯りと暗闇が交じり合う空間だからこそ、
静かに際立たなくてはいけない存在が居る。

それが、バーのマスター。
伏し目がちにグラスをゆっくりと磨きあげ、
流れるような白髪を揺らしながら客に杯を供する仕草。
そんな所作が嫌味にも高慢ともならず、ただ艶のみとして香り立つ。
彼の香りを味わいに、このバーに訪れる客も多かった。

常ならば、静かに伏せた目で伝票を取り扱い、
またのお越しを、との一声で客の酔いを最良のものと仕上げる。
それがこのバーを仕切る、彼の静謐な常態だった。

「かしこまりました。その前に、よろしければこちらを」

そう続くマスターの言葉は、
昨夜、あの夜に初めて放たれた。
喧々囂々と喚きあう四名の狂騒は、瞬時に鳴りをひそめた。

「マヨネーズの芳醇な旨味。塩と胡椒のストイックで凛冽な味。
 ソースの野蛮で、そして誰も抗えないあの芳香。
 いずれもいずれとは為りえず、為りえないからこそ、
 その芳醇さも凛冽さも芳香も成立する。
 
 ところで、
 そのいずれもの魅力にも属さない、もう一つの味わいがあるのです。
 お帰りの前に、よろしければこちらを」

四名の前に、一枚の皿が現われる。
上には、ぷりぷりと瑞々しく弾けるように焼き上げられた白身。
その中央に、太陽を練り固めたかのようなまばゆい橙色の黄身。

そうして、その上にマスターが静かに手をかざす。
傾けられたピッチャーから、琥珀色の糸が垂れ落ちた。

「マ、スター、これ」
「どうぞ。一口。召し上がってみてください」

その声に導かれるように、四人のフォークがゆっくりと皿の上に伸びる。
完璧な目玉焼きに注がれた、琥珀色にきらめく細い糸。
それはカウンターの灯りに照らされ、まるで宝石を織り上げたような光輝を放っている。

浮かされたように、
フォークの中身を口に運ぶ。
白と黄色と琥珀の重奏を、口中に運びこむ。


「マヨネーズにも、塩こしょうにも、ソースにも叶えられない魅力。
 芳醇さも、凛冽さも、野蛮な芳香も敵わない魅力。
 そう。それは甘味でs」

「メープルシロップじゃねえかふざけんなッ」
「っちょ、何これ最悪最ッ低ッ」
「あーまーいーきもちわるー」
「二度と来るかこのガムシロ春雨がッ」


そうして、私達は夜の街で別れた。
別れることだけは、予定通りだった。




今、目の前には一皿の目玉焼きがある。
半熟の黄身にフォークをそっと刺し、
ゆるゆると溢れた黄身のソースを、
白身の表面にまぶす。

塩をふり、こしょうを削る。
ナイフで切る。
一片をフォークで刺す。
口に運ぶ。
幸福が訪れる。

それは、私が持つ数少ない形式の一つである。

昨夜、あの夜の往来で別れた人々。
彼にはオタフク中濃ソースの、
彼女達にはマヨネーズの、
そしてマスターにはメープルシロップの。
それぞれの形式が、確かにあったのだろう。

そうして、その形式がそれぞれの生活において定まれば定まった分だけ、
異なる形式を目に耳にした時、激しい戸惑いと拒絶に襲われるのだろうと思う。
何故なら、その戸惑いを容認し、拒絶を受け入れた瞬間にこそ、
それまで自分を築いてきた自分だけの形式が瓦解するからだ。

人の数だけ形式がある。
もしそこに序列があるとすれば、それは多分形式の強弱ではない。

どこまで自分の形式を盲信し、
排他性を保てるか。ただその一点を貫けるかどうかに過ぎない。

閉じた視野の中でひそかに息づく情動の昇華体。
それが形式、と呼ばれるものの実体ではないか、と思うのだ。


ふと、視線を調味棚に向けた。
封を切られていない、濃い緑色の小瓶が目に入る。
目玉焼きを切る手を止め、瓶を見つめ、記憶をたぐる。

立ち上がり、私は瓶を手に取り、封を切る。
半分ほど食べ終えた目玉焼きの皿の上、瓶をそっと傾ける。


形式がふりかけられている皿の上、
私はバルサミコを垂らした。



「万物は崩壊する。崩壊は形式のひとつである。形式は万物為りや?」
(ーー吾妻滋郎著『認識の基地』末文より抜粋)


散文(批評随筆小説等) 食の素描#2 Copyright  2007-10-12 23:38:21
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