逆巻く酒巻
佐々宝砂

逆巻きなさい、酒巻よ

我らが主人公の名は酒巻である。これを読んでいるあなたの氏姓が酒巻であったとしても、またあなたのお住まいが埼玉県行田市酒巻であったとしても、それは単なる偶然の一致に過ぎないのでお気になさらぬように。さて、夢見がちな詩人肌、と言えば聞こえはよいが、実は三十歳にして普免以外に資格を持たぬ甲斐性なしフリーターに過ぎない酒巻の耳に届いた声は、いささかハスキーではあったが確かに女性の声だった。そして確かに、この世ではない場所から響いた天啓と思われた。そこで夢見がちな甲斐性なしであるところの酒巻は決意してしまった。俺は逆巻くのだ! それが俺の天命だ! 孔子でさえも天命を知ったのは五十歳だったはずで、フォークリフトの免許すら持たない詩人肌フリーター三十歳に天命など知られるわけもないのだが、決意してしまったものはしかたない。しかし「逆巻く」とはどんなことなのであろうか、甲斐性なしだが生真面目な酒巻はまず辞書を引いた。

さかま・く 3 【逆巻く】 (動カ五[四])

水流がぶつかり合って激しく波立つ。また、わき上がるように渦を巻く。
「―・く波」「―・く炎」「―・く水も早かりけり/平家 9」
三省堂提供「大辞林 第二版」より (goo辞書検索)

酒巻は人間であって水流ではないから、波立つことは難しい。どうしたらいいだろうかとふとつけたテレビに渦潮が映った。酒巻の住まいは東海地方の海端にあって、遊泳禁止の海には大きな渦潮こそないものの小さな渦がいくつもありウドと呼ばれていた。おそらく渦が訛ってウドとなったものだろうが、酒巻は学生の頃そのウドに巻き込まれた経験があった。あんな経験は二度とごめん、と思いはしたものの、逆巻くと決意したのだ、酒巻は海パンを穿きまだ肌寒い六月の海辺にまで車を飛ばした。曇りがちな空の下、遊泳禁止の海に人気はない。どぼんと飛び込むと死にそうな気がしたのでおそるおそる足をいれた。鳥肌を立てながらずぶずぶと進む。ほどなくウドに巻き込まれた。脚と首のあたりで流れが違う、息継ぎがひどく難しい、死にそうな気がする、俺は逆巻いているのだろうか、おーい、女神よ!

逆巻きなさい、酒巻よ

半分かた潮水に浸かった耳に再び天啓が響き、酒巻は悟った。たとえメエルシュトレエムに飲まれようとも、シュトルム・ウント・ドランケの渦に身を投じようとも、それは「巻き込まれている」のに過ぎず、逆巻くこととは明らかに違うのだ。溺れそうになりながら酒巻は浜にあがった。甲斐性はないが泳ぎは得意なのである。逆巻く、逆巻く、逆巻くとは俺にとっていったいなんだ? 酒巻は仕事を休んでまで考えた。あまりに休んだのですべての仕事先を首になった。もともと金のない一人暮らしだったので酒巻の暮らしぶりは落ちに落ち、公園で髪を洗い寝泊まりする身分となったが、あまり気にしなかった。逆巻くことこそ重要なのである。とりあえず今のこの状態は社会に対して逆巻いているのではないか? しかし何か違う、何か違うと思われてならなかった。ホームレスと化した酒巻は西を目指して移動してゆくことにした。そうすると地球の自転とは逆方向に動くことになるのではないかと思った。ある夜、橋の下に段ボールを敷き今夜のねぐらを作りながら、酒巻は見えぬ女神に祈った、俺は、逆巻いているのですか?

あなたの髪は逆巻きましたね
でも違うのです
逆巻きなさい、酒巻よ

なるほど櫛もブラシも使わぬ酒巻の髪は長くなってもつれ、逆巻いていた。酒巻髪・逆巻髪・きまきがみ。しかしそうではないと女神は言う、どうすればいいのだ、どうしたら逆巻くのだ。酒巻はなんだか腹が立ってきた。わけのわからない命令を下しやがって、こんなわけのわからない詩に登場させやがって、そうだ、わかったぞ、俺は作者に逆巻くのだ! 酒巻は息巻き、うん、と力を込めて詩から飛び出して作者わたしの胸を包丁で突き刺そうとした。包丁は作者わたしの家にあったものである。作者わたしは家庭の主婦であり、台所には当たり前のように包丁が常備されている。お驚きおびえながら作者わたしは言い逃れをした。私は女神ではないし、逆巻けなんて命令もしてなーい! 命令をしたのはね、命令をしたのはね、

逆巻きなさい、酒巻よ

ほら、あいつだよ! 作者わたしの声とは違うでしょう? 別人でしょう? あいつのとこまで行って逆巻いてきなさいよ、それでこそあんたは逆巻く酒巻。そこで酒巻は、



(タイトル提供・ハスキーボイスな芳賀梨花子)


自由詩 逆巻く酒巻 Copyright 佐々宝砂 2004-06-01 14:17:03
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