Dont't stop the rain.

僕が東京でフリーライターを始めてから、もう五年に為る。

 大学卒業後、他に遣る事もなく小規模の出版会社に就職した僕は、希薄な人間関係に厭気が差したからという極めて身勝手な理由で、一ヶ月のサラリーマン生活に易々と幕を閉じた。
しかし、初めて手にした真白な退職届けに「僕は、夢を追うために、辞職します」と赤のサインペンで甚だしく綴ったのは、強ち戯言では無く、気の弱い僕なりの震える決意表明だった。働き蟻として社会に貢献為て人生を終える位ならば、蟋蟀として路上で愛用のギターを抱えて凍死したい。僕の夢は子供の頃から他人とは違う波乱の人生を生きる事に尽きた。しかし矢張り夢は夢で、僕は昔から、平凡な癖にプライドが高い理想家で、言うなれば損ばかりを繰り返して来た。一言で言えば、不器用なのだ。僕の若くしての自信過剰は、先刻も述べたように少なくとも人生にプラスの要素こそ与えては来なかったし、道に逸れる事で如何うにか点滅為る存在意義を確立しようと足掻けば足掻くだけ、矢張り平凡に留まった。
 しかし、僕が二十数年築き上げて来た鉄壁のプライドは、そう簡単に崩れる訳も無く、何年経っても又こうして同じ事を繰り返し、怠惰なだけの朝を迎える。
 
 あれからという物、僕は日々ネットでは夢を渡り歩き、現実では相変わらず家賃二万の曰く付きアパートで原稿料による不安定な収入を、全て愛猫の餌代に捧げて居る。
口先と行動は、根が平々凡々で在る僕の場合必ずしも紙一重に為らない。悪魔で、解り切っている事だ。
 会社の連中は、地味な僕が突然派手に辞職したので、今頃勢い余って単身渡米でもして大物ライターと為り、ニューヨークのブロンド娘と電撃ゴールインでもしたのではないかとでも噂して居るだろうか。半ば大袈裟では有るが、そう考えると、情けなさと同時に、申し訳なくも有る。 

「自ら跡を濁した立つ鳥は、誰に強いられずとも其れなりの責任を果す義務が有…って、御前なぁ。猫の手は借りる物で、人の邪魔を為る物じゃないんだぜ。」
キーボードに尻尾を渦巻いて、此方を悪戯に眺める、僕の恋人。名前はアサヒ。此奴が捨てられて居たのが某ビールの段ボール箱だったので、其処から拝借した安易な名前だ。
夏に生まれたから、ナツオ、の僕も又、充分安易なのだけれど、何て。

 「君は自由気儘で羨ましいよ。」
抱き上げたアサヒは結構な重量だ。其の儘、風に当たる為ベランダに向かうと、丁度雲の隙間から三日月が顔を覗かせて居た。
 洗濯物を取り込まないと。と思う。こうして居ると、僕は不謹慎乍ら此の生活も其れ程悪くないな、と感じる。昼間の憤りが、夕方を経て夜に為ると呆気なく収まり、心が穏やかに為るのだ。会社を巧く遣り過ごせずに辞めてしまった罪悪感も、僕が為すべき事は何処かに必ず有るんだ、と改めて思うと随分楽に為る。
何処までも、安易だと、猫の眸が僕を微笑う。でも、そう考える他に僕は僕を救う術を知らない。
 
 何方にしろ、戻る事は不可能なのだよ。
アサヒは欠伸を一つ漏らし乍ら、涙ぐむ僕にそう告げた。

(雨が、止まない



未詩・独白 Dont't stop the rain. Copyright  2007-09-15 00:25:29
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