哲学的人間(その2)
生田 稔
1.
自然と神につき、ふとふと考え始めた。神を見出しえたが、自然が先か神が先かという少々大それた空想に陥ってゆく。神に全能という言葉を正確に当てはめうるであろうか、神でさえ自然の束縛下にあるのではなかろうか。
聖書は神の言葉であることで有名である。ずーと読んでゆくと、神はきわめて感情的な方であることが解る。
それは、聖書に記録されている、禁断の木の実。そして、アダムの子、カインとアベルに起こった事件。そう多くの事件をとりあげずとも、神が感情的であることは、この2つの事例をを論ずるだけで十分である。
大概の人はこのことの裏を考えたがる。わたしもそうだ。我々が何事においても、簡単にうべなわないように、神はもっと難しい。
われわれの常識では解決できないものが神の行動にみられる。
心理学という学問が成立し心の問題もある程度学習できるように、聖書だけでもなく、あらゆる書物や遺物などを通して神の心も知ることができる。
神は物質宇宙を創ったであろう。では、宇宙を創る前に独りでいた頃に私は、時折思いをめぐらしてみる。
すると神だけに属していた自然というものに突き当たる。神は自分自身は創らなかった。それでは、その存在の周囲、つまり自然も創らなかった。そう結論してよい。
それはあまりにも思弁的と言われるであろうか。そうは思わない。あなたはどう考えるであろうか。
こんなことも考える.ただ空想だからほっておいてほしいが。人間が何兆と言う小生物の集まりであるように。初めいわゆる独りでいた神も、無数の微小生物の集まりであったかもしれない。そうすると我々のように原子の構造までも追及してゆく能力と意欲に恵まれた存在は、神とともに初めから存在していた個人個人であつたのではないか。
そうだから、歴史はどうなるかと言うことに、思弁を推し進めてゆくと。我々は不滅である。すくなくともイナゴのように無視されてもよいものではない。
田辺元という哲学者は、長い思索と思弁の結果、「私は死にません」と会う人ごとにもらしたという。
その話しを妻にきかせたら、「哲学者らしい言葉ねえ」という。妻もこの言葉の深さに打たれたらしい。
つまりここに、述べたことは、田辺元さんは解決ずみだつたのである。
我も彼も、同じ人間であったなと思い知った次第である。
2.
わたしは非常に思弁的な人間である。思弁的とは、哲学事典によると「倫理的な修錬を通じて知性に由来する真の自己を発見した霊魂が知性へと自己を純化し神に向って上昇する。」ことだそうだ。
聖書を47年読んだ。この哲学事典のごとくであったかもしれない。この思弁を通して多くを学んだ。就中、特にダビデの言葉に、多くの教訓を得た。
? わたくしを貧しくせず富ませずしてください.富んで奢ることなく、貧しくて盗まぬようにしてくださいますように。
? そこでダビデはナタンに言った。「私はエホバに対して罪を犯した」。
? ああ、門の傍らにあるベツレヘムの水溜の水をいっぱい飲めたらよいのに・・・そこで3人の力ある者たちはフリステア人の陣営に無理やり突入して水を汲み・・・エホバよこのようなことをするなど考えられないことです・・・命を賭けていった人々の血をのめるでしょうか。
ダビデのこの言葉を、というよりもおそらく神が教えられたこの言葉を幾たび私は心に繰り返したことか。
聖書の教えにはこのほかに数え切れないものがある。本を作ると限りがない、体が疲れる。故に神を畏れ戒めを守れ。とソロモンの伝道の書にはある。しかし、そんなことで満足する人はあまりいまい。この私もこんな文章によってまた本の山に一文を加えようとしている。
本を編めばきりがない。つまり学歴と昇進は空しいことではなかろうか。小学。中学・高校のいずれかにおいて3年ぐらいとことん勉強すれば、それで殆んど人は人生の基礎をきずいたことになる。
野に山に海に川に、人は歩き駆け、スポーツにゲームに、音楽に読書にと活躍しなければならない。豊かな人生とはそういうところから生まれる。
このことに殆んど異論はあるまい。今日は、テレビの高校講座でシチリアの歴史を学んだ。シチリアはシシリー島と南イタリアにまたがる王国であった。主としてスカンディナビアのノルマン人の征服者が建国したが、キリスト教とイスラム教の結びついたラテン・ギリシャ・ヘブライ・アラビアの渾然一体たる文化がそこにはあるという。
私は大学教育は必ずしも必要ではないと思った。大学では不可知なことを学ぶ。高校以下では、おもに判りやすい、可知な事実に重きを置く。不可知なことは自分で追究したほうが良い。ニュートンは大学を出たかも知れぬが、あるいはアインシュタインも、しかし彼らの特徴は空想することであったに違いない。世界の何処にても、天才は学校よりも人そのものよりいずる。